ここは相手に合わせて、
 「失礼いたしました。○○社の『月刊××』でコラム欄を執筆しておりますオダジマと申します」
 ぐらいな情報を提供することで、総会屋を警戒するヤマダ君(仮名)の不安を取り除いてさしあげるのが正しいマナーだ。

 というのも、取材先の広報は、「オダジマ」ナニガシという個人名よりも「どちらの」に当たる会社名なり媒体名なりの「所属先」の情報をもとに取材への対応を判断するからで、逆に言えば、個人の名前など、村上春樹先生でもない限り、何の役にも絶たないからだ。

 年かさのヤンキーが、
 「おまえ、なに中?」
 と、初対面の後輩に出身中学の名称開示を要求するのは、彼らが個人名の個人である以前に、地域社会に根付いた中学校の学区域をレペゼンする地域的な存在であることに由来している。これに対して、地域社会から遊離した全国区の上場企業名簿の中に組み入れられたホワイトカラーは、対話相手の会社名で相手の人間性を判断しようとする。ついでにご報告しておけば、大学卒の人間のみで形成されるインナーサークルであるメディア業界の人間は、常に同席している人間の出身大学を気にかけている。そういう仕様になっているのだ。

 であるからして、
 「どこの大学でしたっけ?」
 というあからさまな質問をせずに済ませるべく、業界の人々は、三田周辺のうまい店の話題を振って探りを入れたり、高田馬場周辺の学生下宿の家賃相場の浮世離れした水準にあらためて驚いてみせたりなどしつつ、セミの死骸の周辺を行き来するアリみたいに触覚をぶつけ合っているのである。

 ことほどさように、われわれは、所属先のアピールばかりで日々を過ごしている。
 こんな社会で、個人の信用を基盤とした通貨がマトモに通用するはずがないではないか。

 余談だが、私は、21世紀の若い人たちが「自由」という概念にさほどの魅力を感じていないように見える背景には、われら日本の自由業者が、彼らの目から見て、肩身の狭い生き方を強いられていることがあるのだと思っている。

 「自由になるとローンが組めないらしいぞ」
 「自由業の人たちって、他人に信用されないしなあ」
 「でなくても、自由ってつまり不安定ってことなわけだし」
 「そもそも自由業者って、他人の自由にされるってことじゃね?」
 「っていうか、自由を切り売りにしてる人たちってことだよね?」
 「まあ、フリーランスはフリーオブチャージだし」
 「自由契約はクビの婉曲表現だし」
 「自由落下は墜落のことだし」

 話がズレてしまった。
 私はこの話題になるといつも取り乱してしまう。
 反省せねばならない。