以前、ルー・リードが死んだ時、

「ルー・リードの死に反応している人たちは、自分が他人とちょっと変わった趣味を持っていることをアピールしているんじゃないかしら」

 みたいなことを書き込んだ人がいて、私はその時、たいそう腹を立てたものなのだが、自戒を含めて言えば、ツイッターをはじめとするネットという空間は、その種の皮肉な深読みや、ワルぶった捨て台詞を不当に高く評価する傾きを持った場所で、それがために、心からの哀悼の言葉や、素直な感謝の気持ちを書き込むことが、なんだか、やりにくくなってしまっている。

 あたりまえの自然な感情を、思っているままに書き記した言葉が、子供っぽいと見なされたり、人柄の良さをアピールしている計算高い行為と解釈されたり、誰かに対するおべっかだと言われたりするリスクを考えると、誰もが、少しずつ口を曲げてものを言うようになる。これは、大変に厄介なことだと思う。

 ボウイ氏が亡くなった当日か翌日、

《「戦メリ」の撮影現場ルポとか読んでるとボウイがとつぜん小児マヒ患者の真似をして空気なごませたとか出てくるのが80年代の空気感なんですけど、小山田圭吾の虐めごときで吹き上がれるポリコレ左翼の皆さんこれ許容できるんですかね。》

 という書き込みが、ツイッターのタイムラインに流れてきた。

 死者を過剰に持ち上げる書き込みや、感傷的な言葉の洪水に、鼻白んだ気持ちを抱いた書き手による軽い皮肉なのだろう。

 こういうことを言いたくなる気持ちは、私にもよくわかる。
 が、ここで言われていることは、なかなか凶悪だ。

 まず「小山田圭吾の虐めごとき」と言っているが、あれは、「ごとき」で相対化できるようなお話ではない。興味のある向きは、「小山田圭吾 いじめ」ぐらいで検索して出てくるテキストを読んでもらうとして、もうひとつ、その「いじめ」および「いじめ自慢」を批判した人々を「吹き上が」ったと表現してしまうまとめ方にも同意しかねる。

 件のいじめに違和感なり非難の気持ちなりを表明した人々をひとっからげに「ポリコレ左翼の皆さん」という言い方で揶揄している態度にも賛成できない。

 ついでに言えば、映画の撮影現場という閉鎖空間の中で、仲間内に向けた私的なジョークとして演じられたボウイ氏の「ものまね芸」(←これも、伝聞に過ぎない)と、いじめの加害者であった当人が、雜誌のインタビューに答えて開陳した自らのいじめ加害体験の詳細を、同一のポリコレ対象行為として並列してみせた書き方は、O氏によるいじめ加害を過小評価させる意味でも、ボウイの「ものまね芸」を過大に見積もらせる意味でも悪意のあるレトリックだと思う。

 ここで挙げたのは、ひとつの例に過ぎない。

 この種の「甘っちょろいことを言う人間を手厳しくやっつけることでハードボイルドな人気を獲得しているアカウント」は、ネット内に無数に蟠踞している。

 ベッキー嬢を血祭りに上げているのも、同じタイプの、甘っちょろいことが大嫌いな人たちだ。彼らの一人一人がどうだということではないが、大枠として、ネット世論の「空気」が、その種の「口を曲げた言論」に流されて来ている感じに、私は、かなり以前から、いやな感じを抱いている。

 私自身の経験でも、ツイッター上に書き込んだ言葉の中で炎上するのが、不適切な発言(つまりこっちが尻尾を出した時)であるのは、これはまあ、当たり前の話なのだが、それとは別に、最も大きな反発を招くのは、実は、「甘っちょろい」言葉だったりするわけで、この点には、常にがっかりしている。

 最後に、ベッキー嬢に呼びかける言葉で締めようと思っていたのだが、うまいセリフが見つからない。自分の気持ちと、自分の立場のうちの、どちらかを裏切らなければならない事態に直面した時、賢明に振る舞える人間は一人もいない。

 なので、適切なアドバイスはありません。
 とりあえず、甘いものでも食べるのが良いんではないかと思います。
 私は、原稿が上がったら、罪の味がする甘いチョコレートを食べる所存です。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

小田嶋さんの原稿をお待ちしている間に
チョコクッキーをひと袋空にした罪深い私です

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。