対抗上、捜査機関の人間は、当然のことながら、市民団体を装っていたり、無害な私企業のふりをしていたり、NGOの看板をかかげて市民を欺罔する国家転覆計画者や無差別殺戮テロ準備組織の正体を暴こうとする。つまり、テロ組織の犯罪に対峙する捜査員が犯罪捜査に従事する時には、まず、一般市民としてふるまうテロリストを疑ってかかるところからとりかからないと、仕事にならないのである。

 であるからして、捜査の現場では

「私は一般市民です」

 という供述は、まず間違いなく一蹴される。

「テロリストはみんなそう言うんだよw」

 と、たぶん、逮捕にやって来た人間は、「一般市民」の言葉をテンから信じないだろう。

 「共謀罪」の不気味さは、「為したこと」(事実として行われた行為)ではなく、「考えたこと」(アタマの中で考えている計画や謀議)を裁くその前提の特殊さにある。

 普通の刑法は、原則として、犯罪行為の「結果」を裁くことになっている。
 ところが、「共謀罪」は、犯罪企図や犯行の準備や共同謀議をその対象にしている。

 ということは、この法律に関しては、「共謀」の主体なり対象なりをどれほど厳しく限定したところで、さしたる歯止めにはならない。
 なぜなら、いざ法を運用する場面では、法を執行する側の解釈次第で、「共謀」の解釈をどうにでも拡大できてしまうからだ。

 というよりも、捜査する側が、自分たちの見込みに従って、ある程度恣意的に「共謀」の範囲を勘案できるのでなければ、この法律は有効に機能しないのだ。

 たとえば、1990年代のオウム真理教事件の捜査では、

《カッターナイフを所持していたために銃刀法違反、職務質問から逃げようとして公務執行妨害、マンションや東京ドームでのビラ配布で建造物侵入、ホテルの宿泊者名簿に偽名を記入したことによる旅館業法違反容疑、自動車の移転登録をしなかったために道路運送車両法違反容疑で逮捕など通常では考えにくい微罪逮捕が行われ、信者四百数十名が別件逮捕・微罪逮捕で拘束された》←ウィキペディアより

 といった野放図な捜査方法が、堂々と繰り広げられたとされる。

 ほかにも、いわゆる過激派と呼ばれた左翼運動家の捜査では、「転び公妨」(捜査員が捜査対象に意図的にぶつかって転ぶことで、公務執行妨害を成立させる手口)と呼ばれる捜査手法が頻繁に使われている。

 凶器準備集合罪も、その制定過程では、暴力団の抗争が、具体的な殺傷事件に発展する前に取り締まることを目的として準備されたものだと言われている。ところが、実際に法律が制定されてみると、1960年代以降、凶器準備集合罪は、主として学生のデモを規制する手段として用いられることになった。

 これらの例からわかるのは、法律が、運用次第で、かなり恐ろしいツールになり得るということだ。

 共謀罪のような「人間がアタマの中で考えている犯罪」を裁く法律の場合、その運用の幅は、原理的に、どこまでも拡大することができてしまう。