つまり、件の動画を見て私が炎上を予感したのは、それが、「暴力はいけません」という単純な前提で断罪しきれる対象ではなく、むしろ、「暴力」そのものが主題となっている点で、至極厄介な制作物だったから、と言って良い。

 わかりにくすぎるだろうか。
 言い方を変えよう。

 一連の映像の中から「かわいそうなベッキーを無慈悲な出演者やスタッフがいたぶっている」という構図だけを抽出してあげつらうタイプの批判が、誰にも(制作者にも、番組視聴者にも、そしてベッキー本人にすら)届いていないところがこの話題の一筋縄では行かないところで、なぜそんなことになるのかというと、あの企画は、構造としては、「かわいそうなベッキーを無慈悲な出演者やスタッフがいたぶる」ことを意図したドタバタではなくて、むしろ「かわいそうなベッキーを晒し者にしているかのような演出」を通じて「かわいそうなベッキーの物語」を、「贖罪したベッキーの物語」に昇華させるメタな作中作劇だったからだ。

 やはり、私はわかりにくい話をしている。
 細かいところを説明する。

 あの番組の中で展開されていたカッコ付きの「暴力」と、昨年来芸能界を席巻していた「ゲス不倫」といういじめの物語の関係を踏まえた上で、一歩引いた位置からのカメラ目線から捉え直してみれば、ベッキーへのタイキックは、「禊ぎの形式とお墨付きを与えることで、ベッキーに復帰の道筋を提供した」温情の物語でもあり得る、ということだ。

 炎上を受けて、ベッキー自身が、あるラジオ番組で漏らしたとされる

 「年末のバラエティー番組の代表格なので、そこに出演させてもらってうれしかったです。逆ドッキリされるっていうのもね、タレントとして本当にありがたかったなと思います」

 というコメントが、その間の事情を物語っている。
 それもそのはず、この先芸能界でやっていくための新たなキャラクターを創造する意味で、ベッキーにとって、あの演出はとてもありがたかったはずで、そういう意味でも、タイキックは「お約束」だった。

 とすると、あれは、「アリ」だったのだろうか。
 それどころかむしろ「いい話」だったのだろうか。

 私はそう思っていない。
 あんなものをいい話としてまかり通らせてはいけない。

 というのも、仮に百歩譲って「ベッキータイキック演出」が、業界的には、「ゲス不倫からの再出発を促すベッキーへのエール」であるのだとしても、そんな弁解が成立してしまっていること自体が、そもそも「タイキックのような明らかな暴力が禊ぎとして機能してしまう芸能界の暴力体質」を物語るゲスな事実だからだ。

 何らかのミスをやらかした人間が、目に見える形での暴力的な制裁(それがたとえ見かけだけのフェイクのお仕置きなのだとしても)を経ないと、現場復帰できないというルールは、その「制裁」を結界内のメンバーが娯楽として楽しんでいることも含めて、明らかに闇社会の仕様だ。ある種のお笑い番組が、その種のギャングじみた集団主義を絶対のルールとしてアピールしていることは、もしかすると暴力そのものよりも有害であるのかもしれない。

 とはいえ、想像するに、視聴者の大多数は、「禊ぎという物語を含んだ構図」を含みおいた上で、ゲームとしてのタイキックを笑っていたはずだ。