彼らは、オダジマが言い張っているツイートの内容に関しては半分以上賛成してくれていたり、一定の理解を示してくれている。しかしながら、「いま、このタイミングであなたのような影響力のある人が五輪の成功に水をさす発言をすること」に対しては、断固反対の意向を貫くわけなのである。

 ちょっと関係の無い話をする。

 暮れも押し迫った12月の28日、岸田文雄外相が急遽ソウルに飛んで、韓国の外相と会談し、慰安婦問題について日韓両国が「最終的かつ不可逆的に解決」するという合意を持ち帰ってきた。

 各社の報道を眺めていて私が強く感じたのは、わたくしども日本人が「蒸し返す」ということをとても嫌う国民であるということだった。

 「蒸し返す」という言葉は、はじめからネガティブな評価を含んだ用語で、その意味からすると、こういう言葉を国家間のやりとりを表現する記事の中で使うのは、そもそも不適切であるのかもしれない。

 が、ともあれ、一部の新聞が「蒸し返す」という言葉を使わずにおれなかったのは、新聞読者たるわれわれがそうされること(つまり「蒸し返す」=「一度解決した事柄をまた問題にする(大辞林)」)に強い不快感を抱いてきたことの反映だったと考えて良いのだと思う。

 ちょっと前の当欄でも書いたことだが、わたくしども日本人は、「起こってしまったこと」には反対しない傾向を備えた国民だ。

 このことは、われわれが「ひとたび決定したこと」を、あらためて議論の場に持ち出したり、いつまでもいじくりまわしたり、もう一度振り返って考え直したりすることを嫌がる国民だということでもある。

 武士道の世界では、古い話を蒸し返さず、言い訳をせず、自らの出処進退に恬淡としている武士らしい態度を「潔さ」として、大変に珍重している。

 その文脈からすると、何であれ、既に片付いているものの包装を解くことや、決定事項の中にある瑕疵を暴き立てるしぐさは、「空気を読まない態度」として、強くいましめられることになる。

 おそらく、五輪をめぐるお話は、すでにその時期、つまり「蒸し返してはいけない時期」に入っている。

 関連予算が当初の何倍に膨れ上がっていて、その増大分の中に癒着や情実の種が仕込まれているのであっても、とにかく、もはや引き返すことができない以上、同じ船に乗っている同じ乗客として、いまは、船賃が不当だとか、部屋割りが不公平だみたいな私的な不満はぐっとこらえて、とにもかくにも、船が港に着くまでの間は、安全かつ快適な航行のために、皆が船長の号令に服するべきだ、ってな感じで、われわれは航海を続けている。

 とすれば、この夏にあらためて五輪関連予算の数字が発表された時に、私がどんな論評をしたところで、多くの日本人は

「いまさらグダグダ言うなよ」

 と言うだろう。

 個人的な思い出を書く。
 私は、偏食家で、なおかつ小食で、おまけにわりとケチだ。
 なので、大勢で食事に行くとけっこうな確率でトラブルになる。