逆に言えば、そうやって、元日の朝から映画をハシゴしていたり、真夜中のアマゾンでスニーカーを物色していたりする人間のための市場を開拓しておかないと、われわれの社会の経済成長は維持できないわけで、このことは、とりもなおさず、昔だったら眠っているはずの時間に、何割かの人間が目をさまして動画を渉猟していたり、買い物をしていたり、FX市場をウォッチしていたり、ゲラのPDFにアカを入れたりしているからこそ、深夜の光ファイバーケーブルにデータを供給する資金が流動しているということでもある。

 してみると、正月のような社会的空白は、どこからどう見ても、消滅せざるを得ない。SNSを通じて「あけおめ」という挨拶を交換し合えば、とりあえず正月のミッションはそこで終わる。あとは、新しい年が始まったことにして、新しい仕事と新しい娯楽を始めなければならない。

 紅白歌合戦が面白くないのも、あれは紅白を作っている人たちが無能だからではない。

 基本的には、視聴者である私たちの側が、昔ながらのおおどかな娯楽を楽しむに足る精神的な空白領域を喪失していることが、あの番組の迷走の原因で、制作側の人々とて、視聴者の要求水準が以前とは違った水準にあることがわかっているからこそ、爪先立ったタイムテーブルでショーを進行しているのであって、そういうことの積み重ねが、あのどうにも見るに忍びない台本を現出せしめたのである。

 紅白の台本は、節目ごとに「いい話」を挿入することでコント部分のお笑いに水を差す一方で、随所随所にお笑いをはさむことで、せっかくの「いい話」の余韻を台無しにしているテのものだった。だから、画面のこちら側から虚心に見る限りでは、支離滅裂の空騒ぎにしか見えない。でなくても、いったい何を伝えたいのかがうまく理解できなかった。

 あの台本を書いた人間は、たぶん1人ではない。
 大勢の人間が、総掛かりで、よってたかって部分部分を洗練した結果が、あの木に竹を継いでアタマからセメントをぶっかけたみたいな無残な建造物になったのだと思う。

 全体の流れとは別に、コントの小芝居を考える担当の人間はひたすらに部分的な笑いを追求し、感動を提供する係の担当者はただただまっすぐに良い話を散りばめにかかったのだと思う。

 個々の担当者は、自分の担当部署について、あるいは、それなりに良い仕事をしたのかもしれない。
 でも、結果として出来上がってきた全体は、ああいう出来物に落着した。

 不幸な結末だ。
 紅白のような巨大番組は、必ずああいうことになる。
 なんだかおせち料理に似ている。

 どういうことなのかというと、おせち料理をおせち料理たらしめている思想の中にある、色どりを重視し、装飾に気を配り、前例の踏襲と伝統の遵守をこころがけ、縁起を担ぎ、日持ちに配慮し、卓上に並べた時の押し出しの強さと重箱内の政治的バランスに心を砕くあまり、肝心の食べ物としての味わいを二の次にしているどうにも自意識過剰な事大主義のありようが、紅白の演出思想と瓜二つだということだ。