これより1日前の12月18日の午後、“欒川県人民代表大会(県議会)”の“法制工作委員会”主任は、欒川県実験中学校から提出された告発状を前提として本件を立件するよう“欒川県派出所”へ指令を発した。これによって、事件は立件されて調査が開始され、常某堯を逮捕するための手配書が各地の公安局へ通知された。

 12月20日午前11時頃、上海鉄道公安局に属する“杭州公安処”の杭州東駅派出所は常某堯を逮捕した。常某堯は前日の19日夜に杭州のネットカフェからネット上に自己弁護の書き込みを行っていたが、翌20日に故郷の河南省欒川県で本件の始末をつけるために杭州東駅から列車に乗ろうとしている所を確保されたのだった。杭州東駅派出所は20日午前9時に“河南省公安庁”から常某堯の逮捕協力要請を受けて、11時に常某堯を逮捕したものだが、常某堯は午後2時に河南省公安庁へ引き渡された。

 なお、欒川県公安局は本件の調査を本格化したが、中国メディアが同公安局から聴取したところによれば、ネット上には常某堯の同級生だというネットユーザーが次々と書き込みを行っているが、それは「常某堯は誠実で義理堅い人物であり、今回の事件は張某林による虐待が彼に心理的な影響を与えたものと思われる」といった内容だという。また、張某林の学生だったと自称する人物は、当時学校で張某林にこっぴどく殴られた記憶があると書き込んだという。

戦々恐々としたのは老師たち

 この事件が全国的に知られたことにより、戦々恐々としたのは全国の“老師(教員)”たちだった。この事件を模倣してかつて教えを受けた教員に暴行を与える第二、第三の常某堯が出現する可能性を恐れたものだった。中国ではいまだに教員による学生に対する暴力行為は普遍的に存在し、決して珍しいものでないことは多数の動画で確認できるからである。

 本事件のように、かつての教え子が恩師である教員に対して暴力を振るったことに対しては、毛沢東が主導した「文化大革命」(1966~1976年)において、学生や生徒たちが教員たちを反動分子と決めつけ、“造反有理(謀反には道理がある)”のスローガンの下で教員たちに対して暴力行為に及んだことを想起させる。しかし、常某堯が上述した12月19日の書き込みで述べているように、彼は張某林を除く恩師たちには感謝を表明しており、決して教員全てを目の敵にしている訳ではない。

 常某堯が20年を経過してまでも復讐を遂げたいと考えるほどに、張某林が常某堯に行ったいじめや虐待が苛酷なものであったということではないだろうか。張某林は今では20年以上の経験を持つ老成した教員であるが、まだ教員として駆け出しだった20年前は思い通りにならない学生に対して安易に暴力を使ったことが想像できる。こうした忌まわしい過去の記憶があるからこそ、張某林は常某堯に暴行を受けても、その事実を隠して人には言わず、耐えていたものと思われるが、真相はどうなのだろうか。

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