北京市書記の蔡奇は現代の蔡京か?(写真:ロイター/アフロ)

 北宋(960~1127年)の政治家に“蔡京(さいけい)”(1047~1126年)という人物がいる。興化郡仙游県(福建省仙游県)の人で、前後4回(1102~1106年、1107~1109年、1112~1120年、1124~1126年)にわたって宰相を務め、権力を掌握すること合計16年間に及んだ。蔡京は、後世の人から「中国史上最も名高い汚職官僚の1人であり、贅の限りを尽くし、無能で無定見、保守的で腐敗にまみれ、北宋王朝の衰微を招いた奸臣」と評されている。

歓心を買う奸臣

 蔡京は宰相を4回も務めた程の人物だから、決して無能であったとは思えない。その証拠に、蔡京は“興寧3年(1070年)”に実施された科挙で“進士”に23歳の若さで合格している。北宋の第6代皇帝“神宗”(在位1067~1085年)は財政再建のため“王安石”を宰相に任命して“新法(革新政策)”を行わせたが、神宗の死後政権を握った“宣仁太后”は保守派の“司馬光”を宰相に任命して“旧法(保守政策)”に復そうとした。司馬光は新法である“募役法”を廃止し、旧法である“差役法”を復活させることを5日間の期限で実行するように命令したが、役人の抵抗で思うように保守回帰が進まなかった。当時、“開封府”(現・河南省開封市)の“知事(長官)”であった蔡京は、新法支持者であったにもかかわらず、司馬光におもねって旧法支持者に転じ、この難題を司馬光の命令通り5日間で実行して、司馬光を喜ばせたという。

 宣仁太后が1093年に死去すると、7代皇帝“哲宗”(在位1085~1100年)の親政が始まり、再度新法への復帰が行われ、多数の旧法派官僚が追放され、新法派官僚が登用されることになった。しかし、蔡京は神宗時代には新法、宣仁太后時代には旧法を支持するという無定見な風見鶏的性格が災いして、冷遇された。ところが、第8代皇帝の“徽宗”(在位:1100~1126年)の治世が始まると、持ち前の非凡な処世術で宰相に上り、彼に反対する者は旧法派・新法派を問わず追放して絶対権力を握り、16年間も宰相の地位を保った。権力者となった蔡京は、一般民衆から重税を取り立て、大規模な土木工事を行い、大量の賄賂を受け取って私腹を肥やし、富と権力を独り占めして、北宋の弱体化を促進させた。なお、蔡京は伝記歴史小説『水滸伝』にも悪名高き“高俅(こうきゅう)”と並ぶ「四奸臣」の1人として登場している。