修士号を持つ新進気鋭の環境研究家である“雷洋”が不慮の死を遂げたのは5月7日の夜だった。享年29歳。彼は中国の重点大学の一つで、北京市にある“中国人民大学”で環境学の修士を取得した後、“中国循環経済協会”に就職して活躍、中国環境保護分野の若き俊才と将来を嘱望されていた。5月7日は雷洋とその妻の“呉文萃”にとって3回目の結婚記念日であった。その日は23時30分着の飛行機で故郷の湖南省“常徳市澧(れい)県”から親類が生後2週間の娘を見に来る予定で、雷洋は彼らを出迎えるため21時前に北京市“昌平区”にある自宅を出発して北京首都国際空港へ向かった。これを境に雷洋が妻と生後間もない娘と生きてまみえることはなかった。
若き研究者が死亡した「雷洋事件」とは
23時30分に北京首都国際空港へ到着した親類は、到着出口で迎えに来ているはずの雷洋を捜したが、いくら待っても雷洋は現れなかった。親類は電話で呉文萃に雷洋が迎えに来ていない旨を伝えてからタクシーで雷洋の家へ向かったが、雷洋が空港で親類を出迎えなかったと聞いた家族は不安になった。雷洋の身に何かあったのではないか。雷洋のスマホ(iPhone)に電話をかけたが応答がない。家族は必死に電話をかけ続けた。ようやく電話がつながったと思ったら、電話口にでたのは警官で、雷洋に事故が起こったので急いで“北京市公安局昌平分局”傘下の“東小口派出所”へ来るよう要求したのだった。家族が東小口派出所へ駆けつけると、そこで告げられたのは雷洋が死亡したという事実だった。
警官によれば、雷洋は自宅近くの“足療店(足裏マッサージ店)”で買春した容疑で逮捕され、激しく抵抗した上に、連行途中に車から飛び降り、再度捕捉された後に体の変調を来して心臓病で死亡したとのことだった。その後、警官に付き添われて雷洋が収容された“昌平区中西医結合医院”の遺体安置所で家族が対面した雷洋の遺体には頭部と腕に明らかなうっ血がみられた。家族が見ることができたのは仰向けに横たわる遺体の上半身だけで、布に覆われた下半身を見ることは許されなかった。対面が許された時間はわずか5~6分で、写真撮影も禁止され、所定の時間が過ぎると家族は早々に5~6人の“便衣(私服警官)”によって遺体安置所から追い出された。
この通称「雷洋事件」の詳細は、5月20日付の本リポート「若き研究者は偽りの買春逮捕の末に殺されたのか」を参照願いたい。
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