“雷洋”は29歳、1987年に湖南省北部の“常徳市”に属する“澧(れい)県”で生まれた。生まれ故郷の澧県は常住人口78万人(2015年末)だが、生活保護者が6万人以上もいる辺鄙で貧困な地域である。その澧県出身の雷洋は2005年に優秀な成績で“全国高等院校招生統一考試(略称:“高考”:全国統一大学入試)”を突破して北京市にある“中国人民大学”へ入学した。大学で環境学を専攻した雷洋は、2009年に大学院へ進学し、2012年に“碩士(修士)”課程を抜群の成績で修了して修士号を得た。

 修士となった雷洋は大学院を去り、“中国循環経済協会”に就職した。彼は中国環境経済と循環経済領域の専門家として、多数の工業団地計画、生態文明計画、汚染物処理計画、循環経済計画の立案作業に参加すると同時に、中国で最も著名な環境保護関連の三大期刊誌、『環境保護』、『環境科学』、『環境工程』に論文を発表し、中国の環境保護事業にとって得難き俊才として将来を嘱望されるようになった。

 一方、私生活では、2013年5月7日に雷洋は“呉文萃”と結婚した。2人は故郷、澧県の高校“澧県第一中学”でクラスは違ったが同学年であり、呉文萃も2005年の“高考”を突破して北京市の大学へ入学していた。今年(2016年)は彼ら2人が知り合ってから14年目であり、4月24日には待望の女の子が誕生し、雷洋は父親となった。正に雷洋の人生は公私にわたり全てが順風満帆と思われた。しかし、「人生、一寸先は闇」の言葉通り、雷洋と呉文萃の夫婦にとって3回目の結婚記念日当日の5月7日に、予期せぬ不幸が雷洋を襲ったのだった。メディアが報じた事件の経緯を取りまとめると以下の通り。

3回目の結婚記念日が暗転

【1】5月7日は土曜日の休日で、雷洋は昼間ずっと家にいた。この日は夫婦にとって3回目の結婚記念日であったが、雷洋は23時30分に北京首都国際空港へ到着する飛行機で故郷の澧県から生後2週間の娘を見るためにやってくる雷洋の祖母、義妹、兄嫁の3人を出迎える予定だった。20時30分頃、一緒に住んでいる義父(呉文萃の父親)がいつまでもスマホ(iPhone)で遊んでいる雷洋を見かねて、空港へ出発しなくて良いのかと促したが、雷洋は「急がなくても、21時出発で十分間に合います」と答え、依然としてスマホに興じていた。それからしばらくして、雷洋は義父に「これから地下鉄で首都空港へ向かいます。空港で3人を出迎えたら、3人と一緒にタクシーで家へ戻ります」と告げて、21時前に北京市“昌平区霍営”にある“天鑫家園”団地の自宅を出発した。

【2】予定通り23時30分着の飛行機で北京首都国際空港へ到着した3人は、出迎えに来ているはずの雷洋を探したが見当たらなかった。遅れているのかもしれないとしばらく待ったが、雷洋は現れなかったので、呉文萃に電話を掛けて雷洋がいないことを伝えた3人はタクシーで雷洋の家へ向かった。3人が雷洋の家に到着しても、雷洋からの電話はなく、彼らは何度も雷洋のスマホに電話を入れたが全く応答はなかった。日付が変わった8日の午前1時頃、ようやく雷洋のスマホに応答があり、“東小口派出所”の警官と名乗る人物が電話口に出た。警官は雷洋に事故が起こったので、急いで東小口派出所へ来るよう要求したのだった。

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