四川省南部の“瀘県”は“瀘州市”の管轄下にあり、県東部で重慶市と境を接している。瀘県は面積1532km2、人口110万人で、日本の市で2番目の面積を持つ浜松市(1558km2、80万人)の規模に近く、西部地区の“百強県(経済力のある100カ所の県)”に選出されており、現在は“瀘川区”として瀘州市へ編入させる計画が進行中である。

学校は火葬を急ぎ、警察は事故死と断定

 その瀘県の県庁所在地から東南へ30kmに位置する“太伏鎮”にある“太伏鎮初級中学(略称:太伏中学)”で、中国社会が直面する問題点を如実にさらけ出す事件が発生した。この事件に関する海外メディアと中国のインターネット上に庶民によって書き込まれた情報を総合して取りまとめると、その概要は以下の通り。

【1】4月1日朝6時20分頃、“瀘県公安局”の“太伏鎮派出所”は、太伏中学の男子学生宿舎前のコンクリート舗装の道路上に人が倒れているとの通報を受けた。太伏鎮派出所は警官を現場へ急行させると同時に、救急車の派遣を要請した。現場に到着した警官は倒れていた男性が死亡していることを確認し、死者の身元を調査したところ太伏中学の男子学生であることが判明した。死亡していたのは太伏中学2年生の“趙鑫(ちょうきん)”(2002年12月21日生まれの14歳)で、同中学の男子学生宿舎5階の505号室に居住していた。以下、本件を「趙鑫事件」と呼ぶ。

【2】趙鑫の父親“趙廷学”と母親の“游小紅”は2001年に結婚し、2002年に趙鑫をもうけたが、2012年に離婚した。離婚した2人は間もなく再婚したが、2014年に再び離婚し、趙鑫の養育は趙廷学が行うことになった。しかし、趙廷学は年中出稼ぎに出ていることから、趙廷学の父母、すなわち趙鑫の祖父(67歳)と祖母(62歳)が趙鑫の世話をしていた。2015年9月に趙鑫が太伏中学へ入学して学生宿舎で生活するようになると、趙鑫は毎週金曜日の午後に自宅へ帰り、月曜日の早朝に太伏中学へ戻るのが慣例となった。祖父は趙鑫が学校へ戻る時に、毎週100元(約1600円)前後の生活費を渡していた。但し、毎週100元程の生活費をもらっていたのに、趙鑫はいつも腹を空かせた様子であったので、祖父は疑問に思っていたという。

【3】事件当日、学校側は趙鑫の家族が現場へ到着していないにもかかわらず、大急ぎで趙鑫の遺体を“殯儀館(葬儀場)”へ搬送して火葬に付そうとした。遺体が搬送される直前に現場へ到着した趙鑫の家族はこれを押し止め、遺体を仔細に見ると、趙鑫の背中には打撲による赤紫のうっ血が広範囲に存在しただけでなく傷口もあり、左腕は背中の方へ奇妙にねじ曲がっていた。現場にはどこにも血痕がなく、どうみても宿舎の5階から転落して死亡したとは考えられなかった。なお、事件発生から数時間後にはネット上に宿舎前の路上に横たわる趙鑫の遺体や遺体の背中を写した写真が投稿され、人々は当該写真を通じて趙鑫の死が不審なものであることを確信した。

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