第13期全国人民代表大会常務委員会委員長には“栗戦書”が当選したが、彼は2970枚の賛成票を獲得して満票当選であった。一方、中華人民共和国副主席には習近平の「最も親しい盟友」であり、68歳の年齢制限で共産党政治局常務委員から引退したはずの“王岐山”が当選したが、彼の賛成票は2969枚で、反対票が1枚あり、満票当選ではなかった。

1969年の林彪を連想

 王岐山が満票当選でなかったことについて、“清華大学”政治学部の元講師である“呉強”は、メディアに次のように述べた。すなわち、王岐山が満票当選でなかったことは、1969年に開催された中国共産党第9回全国代表大会(4月1日~24日)を連想させる。この大会で行われた選挙で“毛沢東”は党主席に満票当選を果たしたが、副主席に当選した“林彪(りんぴょう)”には2枚の反対票があった。後に判明したところでは、2枚の反対票を投じたのは林彪とその妻の“葉群”であった。これは、毛沢東の「親密な戦友」と言われ、後継者と目されていた林彪が、反対票を投じることで副主席は国家主席の威信に及ばないことを示したものであり、一種の忠誠表明であった。

 今回、国家副主席の選挙で王岐山に1枚の反対票を投じたのが誰かは不明だが、上記の林彪の例を考慮に入れると、王岐山が林彪に倣って自身で反対票を投じた可能性もある。毛沢東の「親密な戦友」と言われて国家副主席になりながら、政争に敗れて飛行機でソ連へ逃亡中に墜落死した林彪、習近平の「最も親しい盟友」として国家副主席になった王岐山。同じ国家副主席だが、王岐山の今後がどうなるのかは注目に値する。

 反対票と言えば、1949年に当時の“中央人民政府”主席の投票で、毛沢東は満票に1票少なかったため、満票当選を果たすことができなかった。この時、開票人が「少なかった1票は無効として処理しよう」と提案したが、毛沢東は「1票不足は1票不足であり、毛沢東を選ぶ選ばないは投票者の権利であるから、その事実は尊重せねばならない」と述べて気にしない素振りを見せたが、実際は密かに部下に命じて反対票を投じたのは誰かを調査させた。調査により反対票の主と推測されたのは、当時北京市にあった“燕京大学”の哲学部教授、張東蓀であった。

 これを境に張東蓀には毛沢東に敵対する人物というレッテルが貼られることになる。1952年に張東蓀は米国へ国家機密情報を漏えいした容疑で逮捕され、最終的には1973年に政治犯収容所である北京市の“秦城監獄”で死去した。彼の3人の息子のうち2人は迫害を受けて自殺、残る1人は長期間拘留された挙句に精神疾患となり、2人の孫は重罪に問われて長期間監禁されたという。これら全ては毛沢東による張東蓀一族に対する報復だったと言われている。こう見ると、中国では反対票が持つ意味はすこぶる重いものがある。