(4)2002年10月26日、馬泮艶は自宅で3日間も難産で苦しみ、母体が危険と考えた人々は医院へ搬送すべきだと提案したが、陳学生の父親は「カネのかかる医院には行かせない」と反対した。最終的にはその日、馬泮艶は女児を出産したが、陳学生の父親は「女の子か」と落胆した様子を見せただけだった。2007年に19歳の馬泮艶は医院で男児を産んだが、生まれた子供に愛情を感じず、何度も子供を捨てようとして看護師に阻止された。2人目の子供が生まれた後、馬泮艶は陳学生に連れられて双龍鎮派出所へ行き、身分証明書の手続きを行った。この時、手続きに必要だとして写真屋で陳学生と並んだ写真を撮ったが、それが唯一2人で一緒に撮った写真だった。

(5)後に、陳学生はこの2人で一緒に撮った写真を使って婚姻申請を行い、2011年に陳学生と馬泮艶の結婚は認可され、2人の写真が張られた結婚証明書が発行された。これによって、馬泮艶は名実共に陳学生の妻となり、戸籍簿上も、陳学生が“戸主(世帯主)”となり、馬泮艶の欄には「既婚」と明記された。しかし、馬泮艶は婚姻申請について何も知らされておらず、彼女が知らぬ間に結婚させられ、自分が既婚者になっていたのを知ったのは、それからずっと後の事だった。

告発事案はいずれも立件されず

(6)2008年、馬泮艶は最後の逃亡を敢行した。彼女は身分証を持って陳家から逃げ出し、巫山県の県庁所在地で店員として2か月間働き、1000元(約1万6500円)を稼いだ。彼女はこのカネで子供の粉ミルクや衣類を買い、密かに烏龍村へ戻るとそれらの品物を陳家の門口に置くと、陳家を後にして広東省へ逃げ延びた。その後、陳学生は馬泮艶を捜そうとせず、馬泮艶は自分が陳家に2人の子供を産んでやったので、彼女の役目は終わったと考えた。

(7)広東省“深圳市”で働いていた馬泮艶は、同僚から自力で不幸から抜け出すべきだと激励され、自分の人生をもてあそんだ人々に復讐することを決意する。2015年4月5日の“清明節(墓参りをする節句)”前に、馬泮艶は陳学生に対し離婚を要求する旨の通知を行い、2016年5月4日に巫山県人民法院へ陳学生との離婚を求める訴訟を提起した。同年6月3日、巫山県人民法院は『“民事調解書(民事調停書)”』を発行し、同法院の調停の下で、馬泮艶と陳学生の離婚が成立し、馬泮艶は“浄身出戸(丸裸で家を出る)”形で自由の身となった。今や、馬家の三姉妹は全員が離婚している。

(8)2017年2月19日、馬泮艶と妹の馬泮輝は出稼ぎ先の広東省から故郷の巫山県へ戻った。今回の帰郷で2人は彼女たちに“童養媳”となることを強制し、望みもしない男の子供を産ませた人々の責任を追及する積りだった。当然ながら、一部の地元民にとって馬泮艶は歓迎されない人物であった。昨年、馬泮艶の境遇がメディアによって報じられると、ある人は彼女が巫山県の恥をさらけ出したと非難したのだった。5日後の2月24日、“巫山県人民政府”は、馬泮艶に関連する状況について声明を発表して次のように述べた。すなわち、いわゆる「巫山県童養媳事件」の中で、馬泮艶が告発した強姦罪、不法監禁、派出所への通報はいずれも立件されておらず、証拠は全て不十分である。しかし、馬泮艶の結婚証明は手続き違反であり、当地“民政局”の局員を“党内厳重警告処分(中国共産党員に対する厳重警告処分)”とした。