【5】2013年、馬泮輝は湖北省の母親の実家がある地域の派出所経由で、失踪してから16年が経過した母親を探し出した。一方、8年間の出稼ぎ生活を送った馬泮艶には求愛する者が少なからずいたが、この間に彼女は自分の婚姻について何らの手続きも行っていなかった。彼女にあるのは2011年に陳学生と結婚したことを示す「結婚登録」で、この記録のために新たな家庭を築くことはできなかった。

【6】2016年5月4日、馬泮艶は重慶市の北東部に位置し、湖南省との省境に所在する巫山県の“巫山県人民法院(下級裁判所)”へ陳学生との離婚を求める訴訟を提起した。馬泮艶はこれと同時に公安局に対し未成年であった自分を強姦したとして陳学生を告発した。これに対して公安局は強姦罪の訴追期間は10年間であり、すでに時効が成立しているため立件できないとした。また、離婚要求について、陳学生は馬泮艶が子供の養育費として10万元(約165万円)を自分に支払わない限り離婚には応じないと述べた。

法的に禁止されたが、今も公然と

 ところで、1949年の中華人民共和国の成立以前、すなわち中国共産党が言う解放前の旧中国では、“童養媳”は特別な風習ではなく、社会一般で行われていた。“童養媳”は、“待年媳(何年か待って嫁)”あるいは“養媳(養い嫁)”とも呼ばれ、”婆家(夫の家)”で赤ん坊あるいは幼時から育てられ、14~15歳の女として生理的に十分な年齢に達したら息子と結婚させて家の嫁にするというものだった。この風習は旧中国で社会が貧困にあえぎ、貧しい庶民が嫁を娶る余裕がない時代に、人々が貧困な農村や被災地区に出かけて生活に苦しむ人々から女児を二束三文のカネで買い付ける、あるいは路傍に捨てられた女児を拾うなどして自宅に連れ帰り、家族の一員として育てた後に、息子の嫁にしたのである。そうした経緯から女児たちの扱いは奴隷同然であったケースも多く、常に虐待を受けていたという悲しい話が数多く伝えられている。

 “清華大学”社会学部教授の“張小軍”が1996年に発表した論文『女性と宗族』によれば、福建省“南平市浦城県”にある“陽村”の資料には、1951年時点で陽村の女性人口1190人の中に“童養媳”の既婚者が129人、未婚者が73人おり、“童養媳”の比率は17%に達していたとある。同書によれば、1949年に中華人民共和国を成立させた中国共産党は“童養媳”とされていた女性たちに「“回娘家(実家へ帰れ)”」と命じる指令を出すと同時に、法的に“童養媳”を禁止したが、今なお福建省中南部の“蒲田市”周辺や重慶市の一部地域では依然として“童養媳”が公然と行われているという。