華国鋒は1976年10月7日から約5年にわたり中国共産党中央委員会主席として最高指導者の地位にあったが、「毛沢東が決めた政策を絶対に擁護し、毛沢東の指示に従う」という通称“両個凡是”と呼ばれる方針に固執し、毛沢東に対する個人崇拝を継続し、鄧小平を始めとする“老幹部”の復活を妨害し、経済政策を急ぎ過ぎたなどと批判され、1981年6月28日に党中央委員会主席の職を辞した。その後は党中央委員会委員の職に形式的に留まったが、ほとんど表面に出ることはなく、趣味の書道に没頭する日々を続け、2008年8月20日に北京市で死去した、享年87歳。

 但し、伝えられるところによれば、華国鋒は2000年頃に中国共産党を脱退しており、その脱退声明には、「現在の共産党は過去の国民党と区別がない。当時の中国共産党は腐敗反対、専制反対のスローガンを唱えて国民党政府を打倒したが、中国共産党が政権を執ってから50年以上にわたる、一党独裁の堅持、人権の抑圧、国民の自由のはく奪、汚職腐敗、司法の濫用などは当時の国民党政府の比ではない」と述べられていたとされる。

孫文をしのぐ陵墓に非難轟々

 それはさておき、華国鋒の葬儀は2008年8月31日に北京市“八宝山革命公墓”<注3>で元国家指導者としての体面を保つ形でしめやかに行われた。華国鋒の遺体は荼毘に付された後、その遺骨は八宝山革命公墓に預けられた。一方、華国鋒は生まれ故郷の山西省交城県に埋葬されることを望んでいたことから、華国鋒の遺族は交城県当局と交渉を重ね、中国政府当局の承認を得て、交城県の景勝地である“卦山(かいざん)”に“陵園(陵墓を中心とした林園)”を作ることを決定した。

<注3>“司局級(局長クラス)”以上の幹部が埋葬される資格を持ち、一般大衆用の“八宝山人民公墓”とは区別される。

 2009年に工事を開始した“陵園”は完工を間近に控えた2011年4月に、メディアの記者に公開されたが、その規模は度肝を抜くものだった。華国鋒の陵墓は卦山の南側半分を占め、敷地面積は10ha(=10万m2:標準のサッカー場14個分)と広く、江蘇省“南京市”の“紫金山”にある“孫文(別名:孫中山)”の陵墓“中山陵(敷地面積8万m2以上)”に匹敵する規模だったのである。孫文は台湾では“国父”と呼ばれるが、中国では“中国偉大的民主革命開拓者(中国の偉大な民主革命の開拓者)”と定義付けられ、革命の先駆者として尊敬されている。華国鋒の陵墓はその孫文の陵墓をしのぐ規模であるばかりか、その総投資額は1億元(約18億円)を上回ると、中国メディアは一斉に批判的な記事を報じた。

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