浙江省“寧波市”の“寧波雅戈尓動物園(Ningbo Youngor Zoo)”(以下「寧波動物園」)は、寧波市の東南部に位置する“東銭湖風景区(景勝区)”にある。同園は中国で水域面積が最大の野生動物園で、敷地面積は126.7haで東京ドーム(4.7ha)の27個分に相当する広さを持つ。2004年6月に対外開放された寧波動物園は、2008年に“国家AAAA級景区(国家4A級景勝区)”<注1>の認定を受けており、“中国野生動物科学普及教育基地”の認定も受けている。また、園内には200種類、1万頭(匹)の動物が収容されている。
<注1>中国政府“国家旅游局(国家観光局)”が組織した「全国観光景勝区品質等級評定委員会」が国家観光基準に基づき認定するもので、国家景勝区の最高ランクは5A(AAAAA)級。
大幅値上げで注目
寧波動物園は寧波市を根拠地とする“雅戈尓集団(Youngor Group)”<注2>傘下の不動産企業“雅戈尓置業”が経営する民営の動物園である。寧波動物園が世間の注目を浴びたのは2013年のことで、それは入園料の大幅値上げによるものだった。同園は大人の入園料を2004年から2009年末までは80元(約1320円)に据え置いていたが、2010年1月1日から100元(約1650円)に値上げし、2012年11月1日からは130元(約2150円)に値上げしたのだった。わずか3年足らずの間に50元(約825円)も値上げしたのはけしからんと寧波動物園を訪れた客たちが不満の声を上げた。人々は寧波市の物価監督局に対して問題を提起したが、寧波動物園は民営であり、物価監督局は民営企業の価格設定には無力だった。
<注2>雅戈尓集団は紡織、アパレルから発展し、今では不動産開発や金融投資分野にも展開している企業集団。
現在、寧波動物園の入園料は、大人:130元、児童(身長1.2~1.5m)、70歳以上の老人および現役の軍人:70元、大人に付き添われた身長1.2m未満の児童1人:無料となっている。大人の入園料を中国国内にある他の動物園と比較してみると以下の通り。
上表から分かるように、寧波動物園の入園料は他の動物園に比べて決して高いものではない。“寧波市統計局”の統計によれば、2016年の寧波市居住者1人当たりの平均可処分所得は4万4641元(約73万7000円)で、これを12で割った1か月の平均所得は3720元(約6万1400円)であった。寧波動物園の大人入園料130元はこの1か月平均所得の3.49%に相当するのである。寧波市は決して貧しい地域ではないが、夫婦が身長1.2m以上の子供1人を連れて寧波動物園へ行けば、入場料だけでも330元(130元×2+70元)かかる。これは1か月平均所得の8.87%に相当する。これに交通費、飲食代、遊具・ゲームなどの費用を加えれば、1日の動物園観光で1か月平均収入の少なくとも10%以上の出費を余儀なくされることになる。
さて、2017年の“春節(旧正月)”2日目に当たる1月29日、寧波動物園で人がトラにかみ殺される事件が発生した。それは高額な入園料を節約することに起因したものだった。事件当日、寧波動物園は春節休暇を楽しむ家族連れでにぎわっていたので、突然発生した凄惨な事件を多数の人々が目撃し、楽しいはずの休日は悲しいものに変わったのだった。
抜け道から無賃入園
この日の午後2時頃、湖北省から寧波市へ出稼ぎに来ている“張某”は妻と2人の子供に友人の“李某某”夫婦を加えた一行6人で寧波動物園の北門に到着した。張某の妻と2人の子供および李某某の妻の4人は、入園料の400元(大人130元×2人+子供70元×2人)を支払って入園券購入後に北門から入園した。ところが、張某と李某某の2人は入園料の230元(大人130元×2人)を節約するために入園券を購入せず、家族が北門から入園したのを見届けると北門の西側にある寧波動物園の外塀に向かった。寧波動物園の北門西側から600m程離れた場所に地元の人が知る無賃入園するための抜け道があった。2人は抜け道を通って外壁に到り、高さ2m以上ある外塀を乗り越えて園内に侵入すると、そこに置かれていた侵入禁止の警告標識を無視して前進し、錆びて穴の開いた鉄条網をくぐり抜けてさらに進んだ。
鉄条網をくぐり抜けた2人の前には野菜畑があり、その先に高さ3mの塀がそびえていた。塀には「内に猛獣あり、乗り越え禁止」の警告標識が張られていた。塀はコンクリート製で上部には高さ70cmの格子状の鉄柵がネズミ返しのように内側に傾斜した形で設置されていた。張某は警告標識など眼中にないかの如く無視して塀に飛びつくと、一気に頂上までよじ登り、塀の向こう側へ飛び降りた。一方、李某某はここまできて怖気付き塀の下にうずくまった。
高さ3mの塀から飛び降りた張某が見たのは、防護服を着てトラに餌をやる飼育員の姿だった。張某はそこで初めてその場所が“東北虎(アムールトラ、またはシベリアトラ)”を放し飼いにしている「トラ区」であることに気付いたが、飼育員がトラに餌を与えていることで安心したのか、慌てることなく観客のいる方向へ向かおうとした。黒い服を着た男が突然現れたことに驚いた飼育員は張某に早く安全地帯へ逃げるよう叫ぶと同時に、トラに肉の塊を与えて気を引こうとした。
張某は飼育員に促されて安全地帯へ向かったが、途中まで行くと何を思ったのか今来た道を戻り始めた。この時、トラ区と水路を挟んで相対する観客側通路にいた人々は黒い服を着た男の出現を知り、後戻りする男に向かって早く逃げろと叫んでいたという。ところが、張某はなけなしのカネで買った大事なスマートフォンを落としたことに気付いたのだった。張某はトラの方向を見て一度は立ち止まったが、トラが彼を見ながら動かないのを見ると、一目散にスマートフォンを落としたと思われる場所へ走った。一方、人々の叫び声に興奮したトラは目を飼育員の餌から張某に転じると、走り寄る張某の方向へ走り出した。張某はようやく落ちていたスマートフォンを見つけて拾おうと手を伸ばしたが、その刹那、トラは張某の右足首に噛みついた。
スマートフォンを拾いに戻り…
ここからは観客が撮影した動画の映像を再現すると以下の通り。
右足首に噛みついて張某を捉えたトラは、張某を林の中へ引きずり込もうとした。噛みついたのは体長2m以上、体重150kg以上の堂々たる体格のアムールトラであった。観客が固唾を呑んで見守る中、トラは右足首を口から放すと倒れている張某の後ろに回って首筋に噛みついた。この結果、張某の顔面は流れ出る血で真っ赤に染まり、その凄惨さは目を覆いたくなるものだった。水路を挟んだ観客たちは、張某を助けたくても何もできないもどかしさを感じながら、ひたすらその状況をスマートフォンで動画撮影をしたり、友人たちに電話をかけて実況中継を行っていた。
すると張某の首筋を噛み続けるトラを周囲で見ていた3頭のトラのうちの1頭が張某の足元に近付いた。これを見た瀕死の張某は、そのトラの頭に向けて13回も蹴りを入れてトラの牙から逃れようとし、手で地面を3回も押して立ち上がろうとしたが、それが最後の抵抗だったようで、それ以降は身動きすらしなくなった。
この時、寧波動物園の保安係が事件発生を聞きつけて現場に駆け付けたようで、連発花火の音や空砲が鳴り響き、周辺をうろついていた3頭のトラは逃げ去った。しかし、張某の首筋に噛みついたトラは逆に興奮したのか、張某の首筋をくわえたまま振り回し、張某の流血は一層激しいものとなった。この時、警察が現場に到着し、観客は現場から退去を命じられ、動画もここで終わっている。
後に寧波動物園が発表したところによれば、救出された男性(張某)は15時50分に最寄りの“寧波市鄞州第二医院”へ搬送されて緊急救助が施されたが、頸動脈を噛み切られていたため薬石効なく死亡した。また、男性に噛みついたトラは寧波動物園の経営トップの決断で射殺され、他の3頭は檻に収容されたという。アムールトラは中国の“国家一級保護動物”であり、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで絶滅危惧種に指定されている貴重な動物である。そのアムールトラが、入園料をけちって無賃入園し、勝手にトラ区に入り込んだ男のために射殺されたのである。殺されたトラこそいい面の皮で、自分のテリトリーであるトラ区に侵入した不届き者を成敗したに過ぎず、彼には射殺される理由が分からなかっただろう。
動物園に損害賠償請求?
さて、入園料を支払って北門から入園した張某の妻と2人の子供はどうなったのか。メディアが報じたところでは、彼らは事件発生から間もなくして現場に到着し、トラに首筋を噛まれているのが張某であることを発見し、驚きの悲鳴を上げたという。これを知った寧波動物園の係員が必死に慰めたが、彼らは胸が張り裂けるかと思うほどに泣き叫び、周囲にいた観客たちを悲しくさせたのだった。
死亡した張某は妻と2人の子供を残してあの世へ旅立ったが、寧波市へ駆けつけた張某の弟がメディアに語ったところによれば、ただでも貧しい生活だったのに、張某という大黒柱を失って、残された家族の生活はどうなるのか、さらには湖北省の故郷には扶養しなければならない父母がおり、悲嘆に暮れるだけで、今は何も考えられないと述べたという。
1月31日付で新華社の「総合新聞」が伝えたところによれば、張某の親戚がメディアに対して次のように述べたという。すなわち、張某は確かに塀を乗り越えて無賃入園したが、それは寧波動物園が管理をおろそかにし、人が塀を乗り越えて入園するのを防止していなかったことに起因する。これは寧波動物園に手抜かりがあったからで、防止さえしていれば、人は無賃入園できなかったはずである。こう述べて、当該親戚は、今回の事件で責任の一端は寧波動物園にあるとして、損害賠償を請求する意向を示したという。これに対する寧波動物園の見解は公表されていないが、それは当然ながら全ての責任は張某にあるというものになるだろう。
中国では2016年7月23日にも上表に記載がある“北京八達嶺野生動物世界”(以下「八達嶺動物園」)のトラ放し飼い地区で人がトラに噛まれて死亡する事件が発生した。トラ放し飼い地区では自動車から下車することは禁じられているが、乗用車の助手席に乗っていた32歳の女性客が突然ドアを開けて下車し、車の前を回って男性が座る運転席に移動して、運転席のドアを開けた瞬間にトラに襲われて地面を引きずられた。これを見て後部座席にいた女性客の母親が娘を救出しようと下車して走り出したことで、母親もトラに襲われた。この直後に八達嶺動物園の監視車が現場へ駆けつけて2人を救出したが、母親は死亡し、娘は大けがを負った。
この事件でも女性客は八達嶺動物園に対し、母親の葬儀費用、死亡賠償金、精神的損害の慰謝料など合計154万元(約2540万円)の損害賠償を要求する裁判を起こしている。八達嶺動物園では入園時点で、園内では絶対に自動車から下りないなどの安全規約が書かれた誓約書への署名が必須であり、女性客の一行も誓約書に署名していたはずだが、なぜか八達嶺動物園に対して損害賠償を求めているのである。
スタッフは緊急対応したが…
寧波動物園の事件について、中国のインターネット掲示板には、「無賃入園などするから“活該(いい気味だ)”」、「安物のスマホのために命を失った」などと、張某の愚かさを嘲笑して自業自得であるといったネットユーザーの論調が大勢を占めているが、一方では「何も悪いことをしていない、国家一級保護動物であるアムールトラを射殺する必要があったのか」と、寧波動物園の決断を非難する声もある。
なお、寧波動物園では、2006年にも無賃入園した観客4人が誤ってライオン区に侵入した事件が発生している。この時は飼育員が生きた鶏を投げ入れてライオンの注意を引いて4人を救出したという。この時、寧波動物園はメディアに対し、各種の緊急対応策を準備してあり、緊急事態が発生すれば、数分以内に獣医、麻酔師、保安係などの必要な人員が現場に駆け付けることができ、これらの人員は麻酔銃や連発花火を所持していると述べている。今回の張某事件に際しても、寧波動物園のスタッフは的確に緊急対応を行ったようだが、運悪く張某を生きて救出することはできなかったのだ。
上述の通り、寧波動物園には無賃入園するための抜け道があり、その存在は地元の人々に知られていた。張某がどこからそれを知ったのかは不明だが、正当な入園料を支払わずに無賃入園すれば、それなりのリスクがあることは覚悟していただろう。それが無賃入園を摘発されて叱責を受けたのではなく、侵入者としてトラにかみ殺されたのは、張某にとって不運以外の何物でもなかった。
それにしても、無賃入園しておきながら、無賃入園を防止できなかった寧波動物園の責任を追及しようとする中国的責任転嫁の発想には脱帽するしかない。中国には自己の利益のためなら脱法を良しとする伝統的な考え方があるが、脱法は所詮法の盲点を突く裏道であり、その結果として生じた損失の責任を他人に転嫁することはできないものなのである。
Powered by リゾーム?