河南省の東部中央に位置する“開封市”は、北宋時代(960~1127年)の首都であったことで名高い。“朱氏崗村”は、その開封市に属する“通許県”(人口:58万人)の管轄下にある“孫営郷”に所在する農村である。その朱氏崗村で金色に輝く、巨大な「“毛沢東”主席の座像」(以下「毛沢東座像」)が建設されている。2016年の年明け早々に、河南省のポータルサイト“映像網(ネット)”はネットユーザーから、このような情報の提供を受けた。それは面白いということで、映像ネットは早速に現地取材を敢行した。
金色に輝き、そびえ立つ
1月5日、映像ネットは「河南の一農村が巨大な毛沢東座像を建設、高さ36.6m、数百万元を浪費」と題する記事を毛沢東座像の写真入りで報じた。その概要は以下の通り。
1月4日、映像ネットの記者が朱氏崗村を訪れると、村の西北の角に位置する耕地の中に金色に輝く巨大な毛沢東座像がそびえ立っていた。その高さは36.6m、オフィスビルなら7~8階建て、住宅ビルなら10階建てに相当する規模である。ただでも巨大な座像なのに、金色に輝いているからなおさら大きく感じられる。座像の後方にはまだ1基の巨大なタワークレーンが取り外されずに残っていたので、工事完成は間近と思われた。そこで、工事現場の責任者に取材すると、次のような説明を受けた。
(1)毛沢東座像の建設は、2015年3月28日に開始され、8月26日に1期工事を終えた。12月16日に基本工事は完成したが、現在は周辺工事を行っており、間もなく竣工予定である。座像は高さ36.6mの鉄筋コンクリート製で、完成した座像に金色のペンキを塗装したものである。
(2)毛沢東座像は朱氏崗村の企業家が建設を計画して出資し、その趣旨に賛同した朱氏崗村の村民が数万元(60~100万円)を拠出したもので、その総予算は300万元(約6000万円)である。
この記事は多数の中国メディアによって転載されて全国へ報じられ、社会の注目を集めた。
この記事に着目した国営メディア「人民日報」傘下のウェブサイト「“人民網(ネット)”」は、1月8日付で「河南農村の金色の毛主席座像はすでに取り壊された」と題する記事を報じた。その内容は以下の通り。
2日後に取り壊し、理由は不明
【1】1月7日、記者は毛沢東座像の建設に関し、通許県の“孫営郷政府”へ電話を入れた。電話を受けた孫営郷政府事務室の係官は、「当該座像は朱氏崗村の辺鄙な荒地に建設されたものであり、土地は非耕作地であって、耕作地ではない。また、座像は朱氏崗村の企業家と村民が投資して建設したものである。但し、建設に関する申請・認可の手続きを経ていない」と述べた。
【2】農村に彫刻や塑像を建設する際には、都市で建設するのと同様に、地元政府の文化管理部門の認可を必要とするのではないのか。この点について、通許県の“文化局”に電話を入れてただすと、係官は「朱氏崗村の座像を建設した場所は観光・文化地区ではなく、座像の建設に文化部門の認可は必要ない」と答えた。そこで、通許県の公園緑化部門にも電話を入れて問い合わせたが、彼らは都市部を管轄するだけで、農村部は管轄外だとのことだった。
【3】1月8日、通許県“国土資源局”の係官が人民ネットの記者に電話で連絡して来たのは、朱氏崗村の毛沢東座像はすでに通許県の“監察大隊(監察チーム)”によって取り壊されたが、それがなんの理由によるものかは分からないというものだった。
通許県国土資源局の係官が人民ネットの記者に連絡した通り、300万元もの巨費を投じて、9か月間もの時間をかけて、朱氏崗村に建設された毛沢東座像は、1月7日の早朝に座像の建設現場へ大挙して投入された取り壊しチームによって完全に撤去され、翌8日の早朝には瓦礫を残すだけとなった。河南省の地元メディアである映像ネットが毛沢東座像の建設を報じたのが1月5日であるから、座像はそのわずか2日後に取り壊されたことになる。しかも、座像はただの座像ではなく、中国革命の偉大な指導者とされ、1945年から1976年まで21年間にわたって中国共産党の中央委員会主席(初代)を務めた毛沢東の座像なのである。
北京市の中心にある天安門に毛沢東の肖像画が掲げられていることからも分かるように、毛沢東は中華人民共和国成立の立役者として神格化されている。中国では多数のドライバーが毛沢東の肖像入りの装飾品を“保平安符(交通安全のお守り)”として車の運転席の正面に吊り下げているほどで、依然として毛沢東を万能の神のように信奉する毛沢東信者が多数存在している。その毛沢東の座像を、たとえ規定の建設に関わる申請・認可を経ていないからと言って、通許県の監察チームが気軽に取り壊すなどということが許されるとは思えない。
それなら通許県政府に対して毛沢東座像の取り壊しを命じたのは一体誰なのか。その命令を下すことができる人物は、中国共産党の最高指導者である総書記の“習近平”しかいないはずである。今までの最高指導者には毛沢東の像を取り壊す命令を下すだけの度胸がある人物はいなかった。その意味するところは、以前からささやかれていた、習近平による“去毛化(脱毛沢東化)”の表れではないのか。
習近平の“去毛化”
2012年11月1日に開幕した中国共産党第17期中央委員会第7回全体会議(略称:七中全会)は4日に閉幕した。閉幕後に発表された「七中全会公報」には、党中央政治局委員であった“薄煕来”の党籍はく奪と、習近平が“党章(党規約)”改正の会議を主管する旨が記載されていたが、従来ならば公報に決まり文句として「鄧小平理論」の前に明記されている「毛沢東思想」という言葉が記載されていなかった。このため、多くの海外メディアは、10日後の14日に開幕し、習近平が総書記に就任する中国共産党第18回全国大会で脱毛沢東化の方針が打ち出されると予想したが、18回全国大会で採択された第17期中央委員会報告に関する決議には明確に「毛沢東思想」が記載されていて、海外メディアは予想を裏切られた。
ところが、2013年12月26日に行われた毛沢東の生誕120周年記念行事に対して、習近平は厳かに質素にするよう指示を出し、2013年10月15日に行われた習近平の父で、元副総理の“習仲勲”の生誕100周年記念行事よりも格式を引き下げさせた。また、習近平は、10月15日当日は“天安門広場”にあり、毛沢東の遺体が安置されている「毛沢東記念館」を臨時休館にさせたが、その理由は父親の記念行事が天安門広場に臨む“人民大会堂”で行われるからだった。これは習近平が毛沢東をないがしろにしている証とも思える。
同じく2013年の11月には、中国共産党第18期中央委員会第3回全体会議(三中全会)が9日から12日まで開催されたが、三中全会を目前に控えた11月2日に、習近平は湖南省西部にある“湘西土家族苗族自治州”の貧困救済状況を視察するため湖南省へ入った。翌3日に視察を終えた習近平は、湘西土家苗族自治州から省都の“長沙市”へ移動したが、その際、習近平は本来ならば通り道となる“毛沢東故居(毛沢東旧居)”がある“韶山市”をわざと迂回し、毛沢東旧居を訪れることがなかった。習近平がまだ政治局常務委員で国家副主席であった2011年3月に湖南省を視察した際には、いの一番に韶山市へ出向き、毛沢東の銅像に献花した後に、毛沢東旧居を訪れている。
中国の最高指導者は韶山市の毛沢東旧居に詣でるのが慣例となっており、“江沢民”は1991年3月11日に、“胡錦濤”は2003年10月1日にそれぞれ韶山詣でをしている。2012年11月に総書記となった習近平が、その1年後に湖南省を訪れたのに、慣例にのっとって韶山詣でをしなかったのは何故なのか。その理由はつまびらかではないが、毛沢東という存在から距離を置こうとする意図がうかがえると言ったら、うがち過ぎだろうか。
さて、1月14日付の「ニューヨークタイムズ」“中文網(中国語ネット)”は、上述の毛沢東座像の取り壊された翌日の1月8日に朱氏崗村を取材した、「金色の毛沢東像では取り除けない大飢饉の記憶」と題する記事を掲載した。その概要は以下の通り。
1942年と1949年の飢饉を混同
【1】ニンジンは、じゃがいも、ラディッシュ、落花生、トウモロコシと共に朱氏崗村の主要作物である。1958年から1962年まで続いた飢饉の中で、これらの野菜が朱氏崗村の人々の命を救った。飢饉は毛沢東が発動した大躍進政策によって引き起こされたものだった。朱氏崗村が所属する通許県は、河南省東部の平原に位置し、飢饉の被災地区の一つであり、通許県では初めの2年間の被災状況はとりわけ厳しいものだった。
【2】毛沢東が発動した農業集団化と工業化運動の後に発生した飢饉は朱氏崗村の人々を苦しめた。その頃、地元の国営食堂では1日2度の食事は提供されたが、分量は非常に少なかった。餓死した人は数え切れず、飢饉は朱氏崗村から200km離れた“洛陽市”まで広がっていた。歴史の専門家によれば、あの私営農業が禁止された当時、全国では少なくとも3000万人が飢饉によって死亡したという。経済発展を加速させる運動の一環として、鉄鍋や農機具は全て溶解するよう命じられ、工業のために軍隊と一緒に製錬を行った。このため、多くの人々が飢え死にしたし、皮ベルトを食べて飢えをしのいだ人もいた。
【3】ところが、当時の飢饉に対してはおぞましい思いを抱いていながら、朱氏崗村の村人の多くは家の神棚に毛沢東の大きな肖像画を飾っている。神棚には、毛沢東の肖像画のほかに観音菩薩の像と河南出身の南宋の英雄である“岳飛”(1103~1141年)の像が置かれている。それは、毛沢東が天下を取ったからだと村人たちは言う。
【4】人々が今なお毛沢東に忠誠であるのは何故かという疑問に対して、歴史学者は数十年にわたる政治的な刷り込みと中華人民共和国成立初期までずっと続いた苦しい生活にあると解釈する。彼らの説明によれば、人々は1942年に起こった飢饉と1949年の中華人民共和国成立後に大躍進政策で引き起こされた飢饉を混同してしまっているのだという。
【5】英国エセックス大学の歴史専門家である“周遜”によれば、“憶苦思甜(苦しかった過去を思い起こして、現在の幸せをかみしめる)”の政治会議の場では、1942年の飢饉の苦しかった思い出が幾度も繰り返され、大躍進によって引き起こされた飢饉には言及すらしないのだという。周遜は、「毛沢東はあの苦難を最終的に終結させて新たな政権をさせた。こうして、毛沢東は新たに朱氏崗村の人々の運命をつかさどる神となった。但し、実際のところ、毛沢東がつかさどったのは運命ではなく、不幸だった」と述べている。
【6】朱氏崗村の老人たちは毛沢東座像が取り壊されたことを残念なことと考えているようだが、ある若者は複雑な心境だと表明して、「この村の全ての人が毛沢東を好きということではない」と述べた。
2015年4月16日、国営“中央電視台(中央テレビ)”の著名な司会者である“畢福剣”がレストランで食事をしながら、文化大革命(1966~1976年)中に演じられた現代京劇『智取威虎山(智恵をめぐらして威虎山を奪取する)』の歌を歌っている動画がインターネットに配信された。畢福剣が歌っていたのは「我々は工農子弟兵」という有名な場面の歌であったが、何と彼が歌っていたのは毛沢東を侮辱する替え歌だった。動画が配信されるや否や、毛沢東を侮辱するとはけしからんという声が全国から一斉に上がり、畢福剣は窮地に追い込まれた。動画は、誰かが畢福剣をおとしめようと、彼が友人と楽しく食事をしているところを密かに撮影したものだった。事態を重く見た中央テレビは、畢福剣が司会する番組の放送を停止すると同時に、畢福剣を厳粛に処理する旨の声明を出し、中央テレビの司会者リストから畢福剣の名前を消去した。
“毛沢東侮辱”司会者、復権の意味は
しかし、2015年12月に発表された、毎年“春節(旧正月)”の前夜に中央テレビで放映される“春晩(日本で言えば紅白歌合戦)”の番組紹介に記載された出演者の中に畢福剣の名前があったのだった。毛沢東を侮辱したことで、中央テレビから処分されたはずの畢福剣が、同じ中央テレビの国民の大多数が視る“春晩”に出演するとはどういうことなのか。それを可能とするのは天の声しかないはずで、「天」すなわち「習近平」という図式が思い浮かぶのである。
習近平が“去毛化(脱毛沢東化)”を進めているかどうかは、朱氏崗村における毛沢東座像取り壊しの一事や上述したいくつかの事例からだけで判断することはできない。ただ言えることは、毛沢東が主導した大躍進や文化大革命などによってどれだけの膨大な人命が失われたかを国民に公表し、毛沢東が中国に果たした得失、並びに毛沢東の真の姿を国民に知らしめない限り、中国は真の意味で大国にはなれないだろうということである。それが毛沢東の否定につながるかどうかは、国民の選択に任せるべきであろう。しかし、これは一朝一夕にできる話ではなく、長い時間をかけて一歩一歩の積み重ねが必要であり、それは習近平のみならず、中国の国家指導者に課せられた極めて重い課題と言ってよいだろう。
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