2016年1月5日、中国共産党総書記の“習近平”は重慶市で全国に31ある省・自治区・直轄市の1/3に相当する11省の党委員会書記を招集して「長江経済ベルトの発展を推進する座談会」を開催した。座談会に参加したのは長江流域に位置する上海市、江蘇省、浙江省、安徽省、江西省、湖北省、湖南省、重慶市、四川省、貴州省、雲南省の各省党委員会書記であった。なお、この座談会には、“国務院”「長江経済ベルト発展推進指導チーム」のチーム長を兼ねる国務院副総理の“張高麗”、習近平の懐刀と言われる党政治局委員の“王滬寧”(中央政策研究室主任)と“栗戦書”(中央書記所書記)などが参加した。
「生態環境の修復」を最優先
習近平は座談会の終わりに演説を行ったが、その概要は以下の通り。
(1)長江と黄河は共に中華民族発祥の地であり、共に中華民族の揺り籠である。中華文明発展の歴史を見渡すと、四川省・重慶市一帯から“江南(長江以南)”の水郷地帯に至る長江流域は著名人ゆかりの地であり、歴代の優れた思想家を育み、無数の傑出した人物を輩出している。長い年月、長江流域は水を紐帯として、上流・下流、左岸・右岸、本流・支流をつなぎ、経済社会の大きな体系を形成してきたが、今日なお依然としてシルクロード経済ベルトと21世紀海上シルクロードをつなぐ重要な紐帯である。
(2)中華人民共和国の成立以来、特に1978年12月に打ち出された“改革開放”政策以来、長江流域の経済社会はすさまじい勢いで発展し、総合的な実力は急上昇し、我が国経済の重心となり、活力となった。しかし、長江経済ベルトの発展推進には生態を優先するエコロジー発展の戦略方針が堅持されねばならず、これには自然法則だけでなく、経済法則や社会法則の尊重が求められる。
(3)長江は特有の生態系を持ち、我が国にとって重要な生態の宝庫である。現在そして今後の相当長い期間にわたって、長江の生態環境の修復を何よりも重要な位置に置き、“共抓大保護,不搞大開発(共に環境保護に取り組み、大きな開発を行わない)”。生態修復事業は長江経済ベルト発展推進プロジェクトの優先事項とし、長江の防護林システムの建設、表土流失やカルスト地区の砂漠化防止、耕地の森林や草原への還元、表土の保持、河川・湖と湿地の生態保護・修復などの事業を着実に行い、水源の維持、表土保持などの生態機能を強化する。また、革新的な新技術を用いて長江の生態保護を行う。
さて、上述した習近平の演説の中で重要なのは、「今後相当長い期間にわたって、共に環境保護に取り組み、大きな開発は行わない」という発言である。長江の生態系が危機に瀕し、風前の灯状態にあることは周知の事実である。その原因は長江沿岸から未処理のまま排出される工場廃水、生活汚水や農業汚水による水質汚染であるが、その根本的な元凶は“長江三峡水利枢紐工程(三峡ダムプロジェクト)”による長江の流量、流速、汚泥量などの急激な変化にある。三峡ダムの完成後、長江は流量の減少、流速の低下を来たしたことにより、汚泥の沈殿量は増大した。また、廃水や汚水が停滞することにより水質汚染はさらに深刻化したのである。
長江の水質汚染は長年にわたってその危機的状況が報じられているにもかかわらず、一向に改善される兆しはなく、年々悪化の一途をたどっている。このため、長江に生息し、“国家一級保護動物”に指定されている“白鱀豚(揚子江カワイルカ)”や“長江白鱘(シロチョウザメ)”などはすでに絶滅したものと考えられている。習近平の言う「重要な生態の宝庫」はすでに空っぽ状態に陥っているのである。
江沢民の責任追及に発展する可能性
習近平が、今後相当長い期間にわたって長江の環境保護を最優先し、大きな開発は行わないと表明したことは、周辺地域の国民に多大な負担を与え、周辺地域の気象や地質にまで大きな影響を与えているとして、極めて評判の悪い三峡ダムプロジェクトそのものに対する評価にも大きく関わってくる可能性が考えられる。それは強いて言えば、習近平に敵対する前々総書記の“江沢民”に対する責任追及に発展する可能性を秘めているとも考えられるのだ。それは以下に述べる理由によるものである。
【1】三峡ダムは長江上流に建設された大型水利プロジェクトであり、貯水湖は重慶市から湖北省“宜昌市”までの660kmに及び、宜昌市の“夷陵区三斗坪”に建設されたダムは堤高181m、堤長2335m、堤頂幅15mの構造を誇っている。ダムに併設された水力発電所は、70万kwのタービン発電機32台と5万kwの電源ユニット2台を備え、その最大出力は2250万kwで、年間発電量は1000億kwhに達している。いずれにせよ、三峡ダムは有史以来世界最大規模のダムであると同時に、世界最大規模の水力発電所である。
【2】三峡ダムの建設計画は、“孫文(孫中山)”が1919年に発表した『建国方略』に遡るが、実質的には中華人民共和国成立後の1953年に“中国共産党中央委員会”主席の“毛沢東”が三峡を視察した際に、三峡ダム建設の可能性に言及したことに始まる。当時、三峡ダムの建設については賛成派と反対派の激烈な論議が交わされたが、国力、技術力、国内・国際情勢を勘案した毛沢東が三峡ダム建設を暫時保留することを決断し、先行して宜昌市に「葛州壩水力発電所」を試験的に建設することになった。なお、葛州壩水力発電所(最大出力271.5万kw)は1988年に完成した。
【3】1976年10月に“文化大革命”が終結した後、三峡ダム建設計画は新たに提起されることとなった。1983年に“水利電力部”が三峡ダム建設の事業化調査報告書を提出し、翌84年に“国務院”はこれを承認したが、1985年に開催された第6期“中国人民政治協商会議全国委員会”(以下「全国政治協商会議」)第3回会議で多数の全国政治協商会議委員が反対を表明した。このため、国務院は1986年から1988年にかけて412人の専門家を招集して改めて三峡ダム建設の可否について14分野にわたって検証を行った。この検証結果は、技術的には問題なく、経済的にも合理的であり、「建設しないより建設するほうがよい、建設するならば後々建設するより早期に建設する方がよい」という結論に達したのだった。
【4】1989年に三峡ダム建設に反対する書『長江、長江、三峡プロジェクト論争』が出版されたが、6月4日に発生した「天安門事件」に絡んで同書の作者で当時「光明日報」記者であった“戴晴”が逮捕されたことにより同書は発禁となり、三峡ダム建設反対の声は封殺されることになった。天安門事件のほとぼりが冷めた1992年3月に、総理の“李鵬”を筆頭とする国務院の指導部が第7期全国人民代表大会第5回会議に三峡ダム建設議案を提出し、同議案は審議を経て、4月3日に表決に付されて可決された。
【5】同議案の表決では賛成票が67%に過ぎず、今日までに全国人民代表大会が可決した最も得票率が少ない議案であった。三峡ダム建設議案が表決に付される前の3月18日、李鵬は全国人民代表大会および全国政治協商会議の党員幹部会議を招集した。この会議の席上、総書記の江沢民は中国共産党中央委員会を代表して2時間にわたって演説を行い、党規律に言及して党員代表に対して三峡ダム建設議案に賛成票を投ずることを要求した。この党規律縛りがなければ、恐らく賛成票が過半数に達することはなく、三峡ダム建設議案は否決されていたはずである。
【6】それではなぜ江沢民と李鵬を筆頭とする中国共産党中央委員会は三峡ダム建設議案を無理押ししてでも可決する必要があったのか、その最大の理由は空前絶後の大規模工事により私腹を肥やすことを目論んだ可能性が高い。なにしろ、三峡ダム全体の総工事費は1800億元(約3兆6000億円)と巨大であった。中国は土地が国家所有であり、当時は人件費も安かったから、この金額で収まったのであって、日本で同規模のダムを建設するとしたら総工事費は一体いくらになるのか見当もつかない。
【7】三峡ダム建設は1994年12月14日に着工され、2006年5月20日にダム部分が完成した。5月20日当日には宜昌市の現場でダム完成を祝う式典が挙行されたが、当時総書記の“胡錦濤”や国務院総理の“温家宝”などの国家指導者は誰一人として式典に参加しなかった。特に温家宝は国務院の“三峡工程建設委員会”主任を兼務していたにもかかわらず、完成式典に参加しなかったのである。また、三峡ダム全体の竣工は2009年12月末であったが、これもまた中国メディアによって大きく報じられることはなかった。
「無用の長物」と判断
上述の通り、三峡ダムの建設を主体となって推進したのは江沢民と李鵬である。ところが、“人民網(ネット)”が2012年12月に報じたところによれば、李鵬は三峡ダム建設の責任を江沢民1人に押し付け、「三峡ダム建設は鄧小平が決定を下し、1989年以降の重大な方針決定は全て江沢民が責任者として取り仕切った」と述べて、その責任を回避している。それはともかくとして、何が何でも三峡ダム建設の実現をごり押しした張本人は江沢民であり、三峡ダムを完成させたことによって国家百年の大計を狂わせたのは江沢民であるというのが、習近平の考えであると思われる。習近平は江沢民が主導した三峡ダム建設が“遺禍無窮(限りなく災いを残した)”、無用の長物であると判断しているのだ。
香港誌「動向」の2015年8月号は現在ドイツに滞在する環境専門家の“王維洛”による「三峡ダムの重大な誤りは隠しようがない」と題する記事を掲載した。王維洛は2015年7月21日に「澎湃新聞網(ネット)」に掲載されて、わずか7時間後に削除された『三峡九章』という文章を引用して三峡ダムが無用の長物である証拠を示している。その内容を抜粋すると以下の通り。
ダムが災害を増大
(1)三峡ダムは中国百年の夢であり、洪水防止、発電、河川輸送、南水北調<注>および地域の発展を5大目標としていた。このうちの最重要課題は洪水防止であったが、その実これらの目標は相互に矛盾したものだった。実現したのは発電だけだったけれども、その代償は発電収益を遥かに上回るものだった。
<注>「南水北調」とは、長江の水を北方の北京や天津などへ送るプロジェクトであり、東、中央、西の3ルートが計画されたが、すでに中央と東の両ルートは送水を開始している。但し、長江の水の水質が極めて悪いため、高コストもあって、その評価は低い。
(2)2014年8月末から9月初旬にかけて三峡ダム区では大雨が降り、多数の周辺地域では地質災害が発生した。重慶市東部にある“奉節県”だけでも、初歩的統計で、死者17人、行方不明者4人、住宅倒壊6000軒、住宅損壊2万軒以上を出した。
(3)1989年の三峡ダム事業化調査報告によれば、三峡ダムの貯水湖周辺は地質が安定しており、土砂や岩の崩壊危険個所はわずか404か所に過ぎないとしていたが、当時の水位は海抜62mであった。2003年に三峡ダムの貯水が始まり、水位が海抜135mに達した時点で、貯水湖周辺では各種の地質災害の発生危険個所が2486か所に達した。2010年に水位が海抜175mに達すると、地質災害の発生危険個所はさらに増えて5386か所になった。
(4)三峡ダムの水位が175mになってからの1年間に、地質災害は水位が135mであった時の年平均件数に比べて3倍以上に上昇し、水位が156mであった時に比べて2倍以上に上昇した。また、土砂崩れの規模も拡大し、大型あるいは超大型の土砂崩れが明らかに増加した。2015年6月24日に重慶市東部にあり奉節県に隣接する“巫山県”では2万3000m3もの特大規模の土砂崩れが発生し、湖面に5~6mの高波が立ち、2人が死亡、13隻の船舶が沈没、56戸の住民が緊急避難し、長江の航行は中断された。
要するに、三峡ダムが建設されたことにより、三峡ダムの貯水湖周辺では水位の上昇に伴い地質災害が増大し、気候変動による雨量の増大に伴う地質災害が増大しているというのである。三峡ダム建設のために移住を余儀なくされた住民は400万人に上るが、彼ら全てが安住の地を得ているかと言えば、そうではない。
長江沿岸には40万社以上の化学工業企業が存在し、5大鉄鋼基地、7大製油所、さらには上海市、江蘇省の“南京市”および“儀征市”などには石油加工基地があり、一定規模以上の汚水排出口は6000か所以上に上っている。そして、膨大な量の工業廃水や生活汚水などが長江に直接排出されている。長江はすでに沿岸600kmにまたがる巨大な汚染ベルトを形成しており、そこには300種類以上の有毒物質が含まれている。2012年に“水利部”が発表した水資源関連のデータによれば、全国の廃水・汚水の総排出量は785億トンであるが、そのうちの400億トンが長江に排出されており、これは黄河が丸ごと長江へ流入しているのに相当するという。すでに述べたように、400億トンもの廃水・汚水を停滞させて巨大な汚染ベルトを形成している元凶が三峡ダムなのである。
テロ、崩壊の危険も
上述した王維洛は、三峡ダムの運用から30年後に、“重慶港”が汚泥に埋まる可能性に言及している。その時になって、三峡ダムを取り壊そうとしても、三峡ダムには40億トン以上の汚泥が堆積し、長江の水は莫大な量の汚泥を海へ運ぶことはできず、下流の流れをせき止め、川筋を変える以外に方策はなく、三峡ダムの取り壊しは不可能になると述べている。
もっと怖いのは、テロリストによって三峡ダムが破壊されるような事態が発生したらどうなるのか。さらには長年の貯水による地質の弱体化で、三峡ダムが崩壊する事態が発生したらどうなるのか。そうなれば、長江の中下流域は甚大な被害を受け、数億人が被害を受けることになろうが、死傷者がどれほど出るかは予測不能である。
1926年生まれの江沢民はすでに89歳。彼は自らを秦の始皇帝になぞらえて、万里の長城に匹敵する三峡ダムを建設して、歴史に名を残そうと考えたのかもしれないが、彼が後世に残すのは無用の長物である三峡ダムを建設したという汚名となりそうだ。
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