日本のメディアが報じない中国の実態を伝えることを目標に連載を続けてきた(写真:PIXTA)
2006年4月から開始された「日経ビジネスオンライン」のサービスは、2019年1月14日を期限として廃止される。このため、筆者が毎週金曜日に連載を続けて来た『世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」』は今回を最後に終了となります。2006年4月6日に連載を始めた「中国・キタムラリポート」は、本日の2019年1月11日までに12年と9カ月継続し、この間に掲載した記事は通算で569回に達しました。「中国・キタムラリポート」は「日経ビジネスオンライン」のサービス開始と同時に始まり、「日経ビジネスオンライン」のサービス終了と同時に終了します。筆者の願望は連載を通算1000回まで続けることでしたが、残念ながら、それは叶わぬ夢となりました。連載を延々と569回も続けて来れたのは、ひとえに読者各位のご支援の賜物であり、それと同時に日経ビジネス編集部の寛容さによるものと、衷心より感謝する次第です。
思えば長い12年9カ月でした。2006年の1月末だったと記憶しますが、日経BP社から同年4月から「日経ビジネスオンライン」のサービスを開始するので、中国関連の記事を連載して欲しいと打診を受けました。当時、大手商社の情報調査部門で中国専任担当であった筆者は、会社の許可を取得した上で、日経BP社に連載依頼を受諾する旨を回答し、第1回目の記事が連載されたのが2006年4月6日でした。
記事を連載するに当たって、筆者は「中国・キタムラリポート」の執筆意図を下記のように設定しました。
日中両国が本当の意味で交流するには、両国民が相互理解を深めることが先決である。ところが、日本のメディアの中国に関する報道は、「陰陽」の「陽」ばかりが強調され、「陰」がほとんど報道されない。真の中国を理解するために、「褒めるべきは褒め、批判すべきは批判す」という視点に立って、中国国内の実態をリポートする。
その後の社会変化によって、日本のメディアは中国の「陰」も報道するようになりましたが、2006年当時は中国の「陰」を報じることがタブーであるかのような風潮が日本のメディア全体に漂っていたことは間違いのない事実でした。そうした環境下では、日中両国民の相互理解を深めることはできないと考え、日本のメディアが報じない中国の実態をリポートすることを目標に掲げて、筆者は「中国・キタムラリポート」の執筆を始めたのでした。
筆者は大手商社で産業機械の輸出ビジネスや日本政府の政府開発援助(ODA)ビジネスに従事し、中南米、中東、アフリカおよび中国との商売を担当し、アラブ首長国連邦(U.A.E)のアブダビとドバイ、中国の北京と広州に駐在した経験を持っています。筆者は30年以上にわたって貿易実務に携わった商社マンであり、中国とは公私にわたり40年以上の関係を持つ身ですが、中国の政治や経済を専門とする研究者でもなければ、ジャーナリストでもありません。そこで、「中国・キタムラリポート」のテーマは、中国の政治や経済の専門領域に立ち入らないことを原則として、中国社会全般の情勢分析に限定することにしたのです。そこには憶測や推測がなく、嘘偽りのない中国社会の実情があり、中国の現実を正しく理解する要素が多分に含まれていると考えたからでした。
大きく変化した中国人の精神面
そうして連載を開始してから12年9カ月、この間に執筆した569回の連載を通じて、「毛髪醤油(毛髪を原料とする醤油)」、「“地溝油(下水溝に溜まった油から作られる食用油)”」を日本で最初に報じましたし、中国の環境問題や一人っ子問題を何度も取り上げました。12年9カ月の間に中国の環境問題は改善されたのでしょうか。中国人の特質の一つに「面従腹背(表面では服従するように見せかけて、内心では反抗すること)」があります。中国政府が必死に環境改善を訴えてキャンペーンを実施しても、それが企業や個人・団体にとって自らの利益にならないなら、表向きは環境改善に協力する姿勢を見せても、真剣には取り組まないのが常で、中国全土で環境改善は一向に進んでいないように思われます。
一人っ子問題については、中国政府が1980年代初頭から実施して来た“独生子女政策(一人っ子政策)”を廃止し、2016年1月1日から“全面二孩政策(全面二人っ子政策)”に転換しており、出産の完全自由化も間近と言われています。「全面二人っ子政策が実施されることによって子供の出生数は増大する」と中国当局は確信していたようですが、出生数の増大は2016年だけに止まり、2017年からは減少に転じました。これは若い夫婦が経済的な理由で子供の出生を抑制していることが最大要因ですが、過剰な農薬散布で蓄積された深刻な残留農薬の影響によって男性の精液中に含まれる精子数が受精限界に近付いていることも大きな要因となっています。精液中の精子数の減少によって、不妊治療を受けている人口が5000万人を超えていることは、中国の将来を考えると致命的と言わざるを得ません。
12年9カ月の間に大きな変化を来したのは中国人の精神面でした。筆者にとって最も印象深かったのは、2006年に発生した「彭宇事件」でした。彭宇事件の詳細については2010年1月15日付の本リポート『傷つき、困っている人を助けてはいけない』を参照願いたいのですが、概要は以下の通り。
2006年11月20日、江蘇省“南京市”のバス停で、バスを待っていた“徐寿蘭”という名の老婦人が到着したバスに乗ろうとして転び、大腿骨を骨折した。丁度到着したバスから最初に下りた“彭宇”という名の気の良い青年が倒れている老婦人を見つけ、彼女を助けて医院まで付き添い、親切にも治療費まで立て替えてくれた。しかし、大腿骨骨折で治療には大金が必要であると知った徐寿蘭は、態度を一変させて、「自分が負傷したのはバスから降りて来た彭宇に突き倒されたからだ」と主張し、治療費および経済的損失を彭宇に請求する訴訟を提起したのだった。
彭宇は徐寿蘭が自分で転んだと確信していたが、徐寿蘭は実の息子が警察官であることを頼りに根回しを行い、裁判官を買収することに成功した。その結果、2007年9月4日に下された一審判決は、彭宇に対し徐寿蘭が提起した損害額の40%に相当する4.6万元(約74万円)を徐寿蘭へ支払うことを命じるという不公平この上ない内容だった。
この彭宇事件の裁判で、徐寿蘭を助けたはずの彭宇が不当な判決を受けたことが引き金となり、対象を老人に限定して「傷つき、困っている人を見ても助けてはいけない」という風潮が中国社会に蔓延するようになりました。路上で倒れたまま誰にも救助されずに死亡する老人が各地で散見されるようになったのです。路上で倒れた老人を助ける際には、事前に現場写真を撮り、周囲の人にいざとなった時には証人になってもらう約束を取り付けた上で救助に当たるといった方法論が真剣に討議されたのでした。
善人を自殺に追い込んだ事件
それから6年が経過した2013年の大晦日にお人よしの“呉偉青”を自殺に追い込む事件が発生したのです。当該事件の詳細は2014年1月17日付の本リポート『「倒れた老人は助けるな」は庶民の合言葉』を参照願いたいのですが、その概要は以下の通り。
【1】2013年12月31日,広東省“河源市”の“東源県漳溪郷”で交通事故が発生した。農道を歩いていた80歳の“周火仟”(以下「周老人」)が転んだところへ、バイクに乗った46歳の“呉偉青”が通りかかった。人が良い呉偉清はバイクを止めると、周老人の所へ走り寄り、負傷して倒れたままの周老人を助け起こすと、周老人を付近にある診療所規模の“漳溪医院”へ連れて行った。しかし、漳溪医院では負傷の詳細が分からないことから、呉偉青は周老人を少し大きな“船塘医院”へ連れて行った。翌日、周老人の家族から検査を受けさせるため、周老人を河源市内にある“中医院(漢方医院)”へ連れて行って欲しいと要求され、呉偉青は唯々諾々とこれに従い、周老人を中医院へ連れて行った。
【2】中医院で検査を受けた結果、周老人は脛骨(向こうずねの骨)を骨折していることが判明した。お人よしの呉偉青は周老人の治療費を全て立て替えた。その金額は、漳溪医院では100元(約1600円)、船塘医院では400元(約6400円)、中医院では前期の治療費として3000元(約4万8000円)であり、その合計は3500元(約5万6000円)であった。ところが、中医院での検査で脛骨骨折であることが判明すると、周老人とその家族は態度を一変させ、何と周老人が負傷した原因は呉偉青が乗ったバイクにぶつけられたからだと断言したのだった。周老人が路上に倒れていたから人間として当然の行為として助け起こし、医院にまで付き添ったのに、周老人は呉偉青が加害者だと言うのだ。これは呉偉青にとって正に青天の霹靂であり、「そんな馬鹿な、冤罪も甚だしい」と怒りに震えたのだった。
【3】事故が発生したのは地元の小学校、“漳溪中心学校”の校長である“周育琴”の家の門前だった。当時、周育琴は家で門に背を向けた形で茶を飲んでいたが、突然に唸り声が聞こえて来たので慌てて外へ出て見ると、路上に人が倒れていた。それは同じ村に住む80歳の周老人であり、そこから6~7m離れた所に呉偉青が乗る1台のバイクが止まっていた。周育琴は呉偉青に周老人を助け起こすようにと声を掛けたが、この時呉偉青は周育琴に向かって周老人にぶつかったのは自分ではないと表明したという。その後、2人は力を合わせて周老人を漳溪医院へ運んだ。漳溪医院に着くと、周育琴は呉偉青に周老人の家族へ連絡を取るように依頼して、自分は学校へ出勤したので、その後に何が起こったかは分からないと述べた。
【4】それから2日後の2014年1月2日、周老人にバイクでぶつけた加害者だと決めつけられた呉偉青は池に飛び込んで自殺を遂げた。後に、警察が呉偉青のバイクを調べた限りでは、バイクには周老人にぶつかった痕跡は何も見つからず、呉偉青が周老人を倒した加害者である可能性は限りなくゼロに近かった。しかし、当時、周老人の家族は呉偉青が加害者であると決めつけ治療費を含む数十万元(約500~800万円)の賠償金の支払いを要求してきたのだった。貧しい呉偉青の一家にとって数十万元は天文学的な金額であり、支払うことなど到底できるはずがない。そこで、思い詰めた呉偉青は「死んで身の潔白を証明しよう」と決意して、衝動的に池に身を投げた可能性が高い。
【5】その後、周老人は自分で転んで脛骨を骨折したが、治療費が高額になるのを恐れて、倒れた自分を救助してくれた呉偉青を加害者にしたと真実を白状したが、それは善人の呉偉青が冤罪を苦にして自殺してから1週間後のことだった。
この事件が契機となったのか、2015年10月には中国で“扶老人険(老人扶助保険)”という年間3元(約50円)で2万元(約32万円)を上限として訴訟費用や賠償金を保証する保険まで販売されるようになりました。
社会道徳を失わせた文革
上述した呉偉青は「老人扶助」に関連する事件で最初の自殺者となったのですが、困った人がいれば助けるという中国人が本来持っていた美徳は、いつの間にか失われつつあります。これを老人の側から見ると次のようになります。すなわち、庶民の老人たちは極めて少ない年金で節約しつつ日々の生活を暮らしています。ある日、歩行中に路上で転び、手足や身体を骨折したら、高額な医療費を覚悟しなければなりません。そうなったら生活は破綻したも同然ですが、家族や親戚にカネを無心するのは心苦しいですから、転倒した際には傍にいる人を加害者にして、医療費を負担させれば、家族や親戚に迷惑をかけずに済むのです。加害者にする人は赤の他人だから別に気にする必要もないし、上手く行けば儲けものですから、嘘をつくことに罪悪感は皆無なのです。
本来ならば、人生の先輩であるはずの老人たちが若者に対して社会道徳を教えるべきですが、“毛沢東”が主導した“文化大革命”(1966~1976年)の時代にまともな教育を受けることなく青春を送った世代は、社会道徳を欠いたまま成人となり、いまでは老人となっています。そうした彼らを手本とする次の世代も社会道徳を欠いたまま成人となり、その連鎖が中国社会から本来中国人が持っていたはずの美徳を喪失させているのです。
2018年12月14日付の本リポート『中国・高速列車で頻発する指定席の座席占領』で報じた、高速列車内で平然と他人の指定席を占領する人々は、社会道徳の欠如が明白ですが、12月22日には“北京喜劇院”で、当日に上演されるイスラエルの劇をどうしても前方で見たいという若い女性が、自分の指定席が後方であるにもかかわらず、前方の指定席を勝手に占拠するという事件が発生しました。彼女は劇場の職員から占拠した座席から移動するよう要求されても応じようとせず押し問答を続けました。最後には警官によって強制排除されましたが、このために劇の開演は大幅に遅れたのでした。中国では高速列車内の“覇座(座席占領)”は依然として頻発していますが、“覇座”は遂に劇場にまで領域を拡大したのです。
国家にも軋みや歪み
中国国内に蔓延する自分勝手で独(ひと)りよがりな風潮は一体何を意味しているのでしょうか。1949年10月1日に成立した中華人民共和国は、その2カ月後にこの世に生を受けた筆者と同じ69歳で、今年中には70歳の「古希」を迎えます。筆者は運動不足によるメタボによる諸症状はあるものの身体は至って元気ですが、寄る年波でいつ肉体のどこかに異常が起こっても不思議ではありません。
これは中国という国家も同じことです。寄る年波の軋(きし)みを修正し、歪(ゆが)みを矯正し、骨格を調整する必要があるのです。上述した“覇座”や老人を扶助しない風潮も、修正や矯正を必要とする軋みや歪みの現れだと思われます。骨格調整を行うには、国家を挙げての「徳育(道徳心のある、情操豊かな人間性を養うための教育)」が必要だと思います。
徳育を行うことによって身勝手で独りよがりな風潮は是正できると期待するものです。
我々日本人は、隣国である中国の実態を正しく認識し、そこに住む中国人を正しく理解することによって、日中両国が共に発展するウインウインの関係を築いて行かなければなりません。そのためには、常に中国の政治・経済だけでなく、社会情勢を観察し続けることが必要だと思います。「中国・キタムラリポート」は今回で終了となりますが、読者各位には引き続き中国社会の動向に興味を持ち続けていただくことを切望する次第です。長期間にわたり「中国・キタムラリポート」を支持いただきましたことを厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました。
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