仕事を辞め、伝統工芸の大学に行きたい
Q 島地様、そしてミツハシ様、はじめまして。部署異動後、仕事だけに時間が取られ、精神的に病んできております。仕事に情熱を注げず、島地さんの言う「淫するもの」も見つからず、逃げの思考に陥り、仕事を辞めたいと考えるようになってきました。先程、淫するものが見つからないと言いましたが、伝統工芸の大学に進学して物作りを学び、それを活かしたいと思うようになってきました。ただ、現状から逃げたいという思考の上での思いであり、恥ずかしながら青臭い悩みだと思っております。年齢的にみた将来のことや彼女とのこれからを考えると不安になります。島地様、そしてミツハシ様からのアドバイスを頂戴できればと思います。
(29歳・男性)
ミツハシ 「乗り移り」読者の皆さま、明けましておめでとうございます。今年もご愛読どうぞよろしくお願いいたします。
シマジ みんな、明けましておめでとう。今年も、「乗り移り」を読んで、くすりと笑ってくれ。この暗い世の中で毎日精一杯生きる諸兄諸姉の気持ちを、ささやかながら軽くできるような回答をしていくから期待していてくれ。
焦らず好機をじっくりと待つことだ
ミツハシ では早速、本年最初の相談とまいりましょう。仕事に情熱を注げず、仕事を辞めたいと思うようになった29歳の男性からの相談です。
シマジ 人生という長い旅は、いつも同じように日当たりのいい場所ばかりを歩くわけにはいかない。日が当たらず、ジメジメと薄暗い場所を通らなければならない時間というのが必ずあるんだ。特に仕事というのはそうだ。順風満帆に見える人にも、次のステップに上れず停滞する時期がある。いわゆる人生の踊り場というやつだね。
長い階段の踊り場というのは、そこで息を整え、再び登るための英気を養うために必要な場所だ。踊り場のない階段は、足を踏み外そうものなら、一気に下まで転げ落ち大怪我をしてしまう。それと同じように仕事における踊り場というのも必要なのだと俺は思うね。時には踊り場で小休止し、来し方を振り返ってみなければいけない。脇目も振らず、ただ上を向いて登り続けていると、ある日突然、ポキンと足が折れてしまうことがあるんだ。
相談者は29歳か。仮に大卒だとすると、仕事を始めて6~7年くらいになるわけだな。そこで仕事に情熱が持てなくなっているというのは、おそらく踊り場に差し掛かったということだよ。踊り場では無理をしてはいけない。一旦立ち止まり、上がった息を整えることを第一に考えるべきだ。
「乗り移り」読者には、耳にタコができ、そのタコが子供を生むくらい聞き飽きた言葉かもしれないが、俺の大好きな格言を送ろう。「毒蛇は急がない」。焦らず好機をじっくりと待つことだ。凪いでいるときに焦ってもいい結果にはならない。その意味で、相談者が言うように一度大学に行き、将来の自分につながるものを学ぶというのも一つの手かもしれない。
技の世界に進みたいわけだな。いい心意気じゃないか
ミツハシ でも、会社を辞めて伝統工芸の大学に行くというのも焦りじゃないですか。
シマジ いや、仕事に情熱が注げないような精神状態のときに、それでも我慢して心を押し殺して働く方が焦りだと思うね。仕事というのはワクワクできないとダメだ。それがこの先もできそうにないなら、方向転換をするのもありだと思うね。伝統工芸ということは、技の世界に進みたいわけだな。いい心意気じゃないか。
俺の親友で「平凡パンチ」の編集長を務めた石川次郎には淳太という息子がいるんだが、こやつは神宮前でBuca Junta(ブーカ・ジュンタ)というイタリアンレストランをやっているんだ。ずっと昔、淳太のことでおやじの次郎から相談を受けてね。「淳太を大学に行かせたいと思っていたんだが、どうしても料理人になりたいと言って聞かない」と言うんだ。「とうちゃん、俺は高校を卒業したら、イタリアで修業をすると言っているんだが、どうしたらいい」と訊かれたから、「淳太が言っていることが正しい」と俺は答えた。
次郎に言ってやったんだよ。「お前も俺も大学に進学はしたけど、そこで何を学んだ?」とね。「お前はマガジンハウスに入って、俺は集英社に入ったが、お互いもう一度、平凡パンチや週刊プレイボーイをやれと言われても無理だろう。俺たちは運にもタイミングにも人にも恵まれて何とかやって来られたけれど、今はもう、大学に進んだからその後は安心と言う時代じゃない。高校生で進みたい道をこれだけはっきり持っているんだから淳太は偉い」と全面的に淳太の肩を持ったんだ。
ミツハシ わがままが言えるおいしい店がもう1軒増えるとほくそ笑んでいたんじゃないですか。
シマジ その通り。この淳太がいい奴でね。俺のことを「オヤジ」と呼んで尊敬しているんだ。あれこそトンビが鷹を生んだというやつだよ。そうだ、ミツハシ、今度一緒にBuca Juntaでメシを食おう。
「伝統工芸を学びたい」という発言がどうも気になるんですよ
ミツハシ いいですね。ぜひ行きましょう。
シマジ そういうわけで、何も会社員として働くだけが仕事ではない。相談者も進みたい道があるなら、そこに挑戦してみればいいんじゃないか。
ミツハシ うーん。ですが、相談者は、大学に進みたいという気持ちは、現実逃避だと自覚していると言っています。私も「伝統工芸を学びたい」という発言がどうも気になるんですよ。
見当違いの邪推かもしれませんが、相談者は、面倒な人間関係や、自分の希望が通らないフラストレーション、正当に評価されない不満などといった会社組織特有の問題にうんざりして、その対極に伝統工芸の世界を見ているのではないでしょうか。というのも、私も小さい頃からNHKなんかの伝統工芸の職人技を見せるドキュメンタリー番組が大好きで、そういう世界に対する憧れは今でもありますから。
シマジ ミツハシは相談者の気持ちが分かるということか。
ミツハシ 腕ひとつで生きていく職人って格好いいじゃないですか。ごちゃごちゃと面倒な組織の問題に煩わされることなく、己の技だけで勝負をするシンプルさを潔しとする気持ちが相談者の中にあるのではないかと思うんです。ただ、相談者より長く社会を見てきて、伝統工芸ではありませんが料理や伝統芸能の世界の人と少しばかり付き合いがある立場から言わせてもらうと、あの世界は会社組織よりも数段、理不尽でストレスフルですよ。
伝統工芸の世界も伝統芸能や料理と同じように基本的には徒弟制ですからね。本当に腕を磨くとしたら、師となる人の下で修業をする必要があります。相談者がこれから大学に進み、誰かに弟子入りするとしたら、その頃、相談者は30歳を優に過ぎている。その歳でしばらくは無給に近い状態で下働きをするのですから、これは大変ですよ。
30歳を過ぎて弟子入りしたら、そこには既に10代の弟子がいるかもしれません。シマジさんの持論で、料理人はなるべく早く料理の世界に入るべしというのがあるじゃないですか。理想は中学を卒業したらすぐに弟子入りすることだと言ってますよね。
シマジ 若くて柔軟な舌に本物の味を染み込ませないと本物の料理人になるのは難しいからね。一流の寿司職人なんかはやはり中学を卒業してすぐに一流店に修業に出た人が多い。料理人は、遅くても高校を卒業後には料理の世界に入るべきだと思うね。
図太い神経で愛すべきあつかましさを発揮しているシマジだが……
ミツハシ 伝統工芸も同じでしょう。一通りの基礎を仕込まれた一回り以上若い兄弟子がいて、まだ何もできない30代の自分がいる。その差を直視しなければいけないわけですからね。柔軟で吸収力があり、既に一定の技術を身につけた若いライバルたちに伍していくためには、彼らの2倍3倍の努力が必要になるでしょう。しかも、職人の世界は努力では埋められない個人のセンスや才能というものもあります。個人の実力が丸裸になるだけに、会社組織とは比較にならない敗北感や嫉妬に悩まされることも少なくない。
それらを理解したうえで、それでもこの世界が好きでたまらないから挑戦するというなら素晴らしいと思います。でも、相談者の「伝統工芸の大学に進学して物作りを学び、それを活かしたいと思うようになってきました」という文章からは、そこまでの切実さが感じられません。父親の反対を押し切り、イタリアに渡って修業をした淳太さんとは違うと思いますね。
相談者が職人になるつもりはなく、伝統工芸のエッセンスを学んで現代のモノづくりに生かすという希望を持っているのなら、仕事を続けながら学んでもいいと思います。やはり、大学に進むというのは本人が言うように現実逃避ではないですかね。
シマジ 逃避であることは間違いないだろうね。でも、逃避でもいいじゃないか。そもそもの出発は逃避だったとしても、新しい場所で自分の才能を開花させた人は少なくない。
ミツハシ ちょっと意外です。シマジさんは、人生において「逃げる」とか「避ける」ということを、よしとしないと思っていました。
シマジ 今でこそ、人生に悩みなどなさそうな顔をして、図太い神経で愛すべきあつかましさを発揮しているシマジだが、実は20歳のときに1年間にわたって完全な引きこもりになってしまったことがあるんだ。
ミツハシ えーっ!本当ですか。
シマジ そうなんだ。朝から晩まで4畳半のアパートの一室に閉じこもり、本だけを読んで一日を過ごしていた。その当時のことだから、下宿に電話などない。ゆえに誰と話すこともなく、誰に会うこともなく、腹が減るとインスタントラーメンを啜り、本を読み続けていた。たまにはアパート近くの定食屋に行くことはあったが、それ以外は一切外出しなかったんだ。
ミツハシ シマジさんの驚愕の告白! その詳細は次週ということにしましょう。
本記事は、nikkei BPnetから転載したものです
(次回に続く)
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