中学校の入学式には出席したが、ほとんど通っていない。日中はひたすら仕事に没頭していた。
道脇:13歳くらいの頃でしょうか。伊豆下田市にいる知り合いのところで、見習いの漁師として働き始めました。住み込みの仕事です。元々体を動かすのが好きだったので、体力勝負の仕事をしてみたいと思っていました。漁師を選んだのは、なんとなく漠然と広い海に出てみたいという思いがあったからです。
漁師の仕事は想像以上に過酷でした。新聞配達などで早起きは慣れていたものの、起きるのは毎朝3時。まだ靄がかかる早朝の時間帯に海に船を出すのですが、視界が無く一寸先は闇のような日も度々です。想像を超える荒波が船を上へ下へと翻弄します。そんな状態で、仕掛けて置いた竿を引き上げたり、竿の先から垂れる糸にエサを仕込んだりするのが僕の仕事でした。結局、働いていたのは1シーズンほどでしょうか。生き物や自然の力に触れるなかで多くのことを学び、僕にとって忘れることの出来ない経験となりました。と同時に、自分の余りの無知さを感じつつ、もっと世界を見たいという思いが一層強くなり、漁師を辞め家に戻ってきてからは、また新たな職探しを始めました。
年齢サバ読みとび職に
離れた地の求人情報誌にも片っ端から目を通し、14歳でも働けるところがないか探し続けました。当然と言えば当然なのですが、14歳を雇うことはできません。なので、「14歳でも働ける」というより「14歳ぽくても働ける」職場がないかを探したのです。
その後、江戸川区のとび業者に住み込みで働くことになりました。この当時は「16歳」と自己申告して面接を受けました。すると思いの外あっさりと面接に受かり、見習いとして働けることになったんです。ある日社長に、「お前年齢サバ読んでるんじゃないか」と言われ、とうとう見抜かれたかと覚悟したのですが、続いた言葉が「どう見ても20歳過ぎてるだろ」と。そのころから落ち着いていて物怖じせず発言するタイプだったせいか、逆にサバを読んでいるんだと思われていたのですね。
とび職の現場では週6日勤務で、朝7時半に現場に到着し8時から体操。その後、持ち場について、足場を組むための単管パイプやクランプ、布板などを運んだり、それらを組み立てるなどの肉体労働をひたすらしていました。結局1年くらいここで働くのですが、最後まで本当の年齢を知られることはありませんでした。
道脇:一応高校は受験しました。学年で言えば、中学3年生の後半頃、たまたま実家に帰っていた際、母に「もし高校に行きたいと思っても、試験を受けとかないと行くことは出来ないよ」と軽く言われたのですが、「それもそうだな」と。とりあえず都立の工業高校を受験することにしたんです。気がついたら受験の1週間前でしたが、この1週間で一気に5科目を独学しました。一夜漬けならぬ、1週間漬けです。その結果、ちゃんと合格することができました。
実際高校に通ってみると、やはり授業は退屈で、肌に合わない学校にはまたしてもほとんど行なくなりました。出席日数が全く足りないので、進級はおろか1単位も取れていません。1年生を終える頃、「続けるか辞めるか」と先生に問われましたが、通学用の定期券もあるし、学食のカツカレー(実際には、ハムのように薄いのですが)は210円と、とにかく安い。「籍だけおいといてください」とお願いしたのですが、結局その後、進路指導室に呼ばれ「会議で決まった。明日から来なくていいから」と退学を言い渡されました。
高校退学後、17歳頃にハウスクリーニングを行なう事業を立ち上げる。独自に不動産会社から受注するなど事業は順調だったが、椎間板ヘルニアを患ったことをキッカケに体力勝負の仕事ができなくなる。
道脇:重度のヘルニアにかかり、歩くのも寝るのもとにかく何をするのも腰が痛い状況でした。両手両足にもしびれが起こり、体を使った仕事はもとより、二度と普通に歩くことさえできないのではと、絶望的な思いになりました。その他方で、体を使えないのなら頭を使う道しかないなぁと考え始めます。そう思いながら、はたと気がつくのです。僕、10歳くらいからほとんど学校に通っていない、いわゆる勉強をしていないので全く何も知らないんです。色んなアイデアはポンポン浮かぶのですが、一般常識とか教養とかそういったものが一切備わっていない。だから、人様が何を言っているのかさえよくわからない。「なんて自分はバカなんだ」とこの時ようやく気がつくんです。
既に実家を出て一人暮らしをしていました。ヘルニアで仕事ができなくなったことで収入もなくなり、電気も水道もガスも止められて、どうやって生きていけばいいかなって真剣に考え出しました。もう完全に家中(いえなか)ホームレス状態です。殆ど食事を摂ることも出来ない日々が続きました。
そうしながら、幼少期から疑問に思い続けてきたことが頭をもたげました。「自分は一体なんなのか」「なんのために生きているのか」。この自問に答えを出すためには、バカを克服しないといけない。それができなければ、生きる意味が分からないのだから死ぬしかない。当時の僕は、究極的にはこの2択しかないと思ったんです。
動き出した「バカ克服プログラム」
別に自殺願望があったわけではないので、とりあえずバカを克服することにしました。名付けて「バカ克服プログラム」。自分に足りないこと、自分のばかさとその対策案や学ぶべき項目などをとりあえず全て紙に書き出してみました。
人の話を聞いてもよく分からないからニュースを見る。ニュースを見ても言葉がわからないから読書をする。読書をしようにも漢字や熟語、諺がわからないから漢字を学習する。文章を読み解くために現代文、その原点である古文、さらに、漢文。文章力がないのだから書写…。こうつらつらと書き進め、自分の分かっていないことを掘り起こしていったんです。現代社会、日本歴史、世界史、科学史、数学、物理、化学、英語…。全部で30くらいの項目になったでしょうか。こうしてリスト化したものをぼーっと眺めているうちに愕然としました。目の前に眺めていたものは、学校の教育カリキュラムそのものだったんです。
現代社会では、「知らないこと」は死を招くことさえあります。例えば、最近ではほとんど無くなりましたが、ある種の洗剤と別種の洗剤を混ぜると有毒ガスが発生することがあります。そのことを知らず「混ぜると汚れがよく落ちるから」と混合してしまい、死に至ってしまった悲しい事故もありました。ちょっとした科学の知識があれば避けられたかもしれない危険が現代の日常生活には無数に潜んでいるんです。
こうした危険から自分と他人の身を守り、より豊かな人生を歩むことが出来るよう必要最少限の共通項目で構成されたモノ、それが教育カリキュラムだったのです。
普通教育が義務ではなかったころ、多くの子供は学びたくても学べませんでした。生活そのものが厳しく、家族総出で働かなければ生きていけない家計が多かったからです。普通教育の義務化は、生活が苦しい中でも子供たちに未来を託そうと願う、多くの家庭の「痛みを伴う決断」によって成立していたんだと理解しました。
正規の教育から離れ、独立独歩してきた僕は、こうして学ぶことと教育の意味を同時に知ったのでした。
「バカ克服プログラム」のマイルストーンとして、大学受験資格検定(大検)の取得を試みる。しかし、気付けば受験日まで3ヶ月。猛勉強の日々が始まる。
道脇:まず、小学校6年間と中学校3年間の内容から復習し始めました。計9年間の勉強はとりあえず1週間で終わらせ、残りの期間を大検に必要な11科目の習得に費やしました。
理論的に答えの出る数学と物理にはほとんど時間をかけず、蓄積がものを言う国語と英語に時間をかけることにしました。まず、英語は5000単語とその用法を合理的に取得することにし、それぞれの単語の入ったセンテンス5000文を1週間で丸々記憶しました。古文や漢文、日本史、世界史、それに化学などもとにかく記憶していったのですが、このとき、記憶と睡眠の関係を発見し効率的な学習法を生み出してそれに基づいて学習していきました。36時間ぶっ通しで勉強していたこともあります。3ヶ月間の徹底した独学自習期間を経て、大検は全科目合格することが出来ました。
でも僕にとって大検はバカ克服プログラムのマイルストーンであり、大検を取ったからといって大学に通いたいという気持ちはあまり起こりませんでした。もし行くなら海外の大学かなって、このときは軽い漠然とした気持ちで考えていました。海外の経験はないし全く知らない世界なので、海外だけに限り「学校」に対して肯定的な印象を持っていたのです。
緩まないネジを思いついたキッカケ
19歳の1年間は、次々と難時に見舞われる。車の大事故を経験して、今のL/Rネジの原型である「緩まないネジ」の構想を思いつく。
道脇:1996年、この年は僕にとって大きな転換点でした。自動車事故に3回もあったんです。一つ目が、走行中にタイヤが外れる事故。2つ目が運転中にハンドルが外れる事故。両方とも嘘のようなホントのはなしです。ルパン三世みたいですよね。そして3つ目が高速道路の事故で、この時は車が大破してしまいました。奇跡的に3回とも全て誰も巻き込むことのない事故でしたし、僕自身もケガひとつしなかったんです。
そしてこの事故の教訓から、僕は「緩まないネジ」を考え出しました。当初から、螺旋構造ではない特殊なネジ山を形成することで、絶対に緩まない構造を造り出せると頭の中で確信を持っていました。緩むことのないネジがこの世に存在すれば、今回みたいな事故は一切起きない。それどころか、世界のありとあらゆる場所に存在するねじそのものの概念も大きく変わると信じていました。
しかし、この頃の僕はすぐに特許を出願しようだとか、事業化しようとかは思っていませんでした。日々頭の中から湧き出してくる数多くある発明、考案と同じく、頭の中にとりあえずしまっておくアイデアの一つに過ぎなかったのです。
さて、先ほど、「もし行くなら海外の大学かなと思っていた」と言いましたが、実は大事故があった翌年、20歳の時に、奇跡的に米コロラド州の大学に留学することになるんです。これには驚きの経緯があります。そして、学校嫌いの僕が一体どのくらい米国の大学に通ったと思いますか?
(第4回に続く)
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