そしてとうとう小学校を”中退”する

 研究室での実験やプチビジネスなどを通じ、小学校5年生頃から徐々に学校教育のあり方に疑問を抱き始める。

道脇:僕は、同じことを同時に習う学校を「量産型ロボット生産ライン」と勝手に名付けていました。このままでは自分も量産ロボットの一体になってしまうと思い、自分はこの「生産ライン」から降り自分の道を模索することを決めました。そこからはほとんど学校には行っていません。たまに行っても、自作のゲームで友人と遊んだりするだけで、授業は一切受けていませんでした。ちなみにこのゲーム、多元的なスゴロク状のモノなんですが、確率で勝敗を計算できるモノで負けたことはありません。

 母には自ら、「勉強は決して嫌いではないけれど、今は勉強する時ではないから、今はこの道から降りる。でも、いつか必ず戻ってくるのでそのときまで見守っていてほしい」と宣言しました。義務教育なのでもちろん学校から母親には連絡が行ったと思いますが、母は僕が一度宣言したら絶対に曲げない性格だということを理解していたので、学校に行けとは言いませでしたね。息子が色々なことを経験する中で判断したことを尊重してくれていたんだと思います。

稼いだお金は後の開発費に

道脇:学校に行かなくなってまず、「ちゃんと仕事をしてみよう」と考えました。家事代行ビジネスを通じて、研究室にこもっていては分からない外の世界があることに気が付き、もっともっとたくさんの世界を見たいと思ったからです。手始めに、近所の商店街を「ビラ配りの仕事を引き受けます」と言って回りました。小学生が何を言っているんだと鼻で笑われもしましたが、布団屋の店主が「面白そうね」と僕にチラシの仕事を与えてくれると徐々に他の店舗からも受注が入るようになりました。

 12歳で、読売新聞の朝刊の新聞配達を始めました。通常の配達員より給料は安くてもいいので働かせて欲しいと、新聞の集配所を回って自分を売り込んだんです。朝早かったので友人にも学校にも知られていなかったと思います。もちろん母は知っていましたが、僕が言っても聞かない人間だと知っていたので「好きなようにやってみなさい」と静観の構えでした。

 家事代行の仕事や新聞配達、チラシのポスティングなどを通じて稼いだお金は、研究の資金に当てたり、無駄使いをせずにコツコツと貯蓄したりしていました。小学校を卒業するころには数十万円はたまっていたと思います。

 あまりよく覚えていませんが、小学校の卒業式には卒業証書をもらいに行ったと思います。でも、友人達が中学生になることへの期待感を抱いている一方で、僕は「もっと世の中を知るために仕事の幅を広げたい」と考えていました。僕にとっての小学校時代の全ては、発明家、そして経営者の今につながる基礎を作り上げるためだったと言っても過言ではありません。

 なぜ既設の道を降りることにしたのか、それは当時、「なぜ学ばないといけないのか。なぜ人は生きるのか」という根本的な問いへの答えが見つかっていなかったからです。自分が進もうとする道が正しいと言い切れないのにこのまま進んでしまえば、「間違いの絶対値が大きくなる」と感じていました。このリスクを背負うよりも、この道を降りてしまうほうが正しい解だと思ったのです。中学生の年齢になると、僕はさらに職業の範囲を広げて行きました。そう、例えば漁師やとび職などです。

(続く)