緩まないネジ「L/Rネジ」を開発したネジロウ社長の道脇裕氏。「小学校はほとんど通っていない」「食事より発明の回数が多い」「アイデアは無限に浮かぶ」・・・・。ちょっと、いやかなり風変わりな発明家、道脇氏の原点に迫る連載の第2回目。
大学教授の母の研究室に出入りし始めたことが、発明家への視界が開けるキッカケとなった。そしてとうとう小学校を“中退”する。
連載1回目:「小学校“中退”の発明家はこうして生まれた」。
母の研究室に通うようになった道脇少年は、本格的な器具などを使い実験や電子機器の分解や化学の実験に明け暮れる。気が付けば、休日だけではなく平日も研究室に入り浸るようになっていた。
道脇:僕にとって実験器具や分解道具がそろっている母の研究室は、まるで夢のような場所でした。自分が持っていたバネやレバーと、研究室に置いてあるセンサーを組み合わせて、時計や簡単なロボットなども自作しました。水を電気分解したり、熱分解させて成分を取り出したりと、化学の実験もたくさんしましたね。研究室がキラキラして見えて、学校にいても「早く母の研究室に行きたい」と思うようになりました。
幼少期の道脇少年。小学校3年生のときに、人はどのくらいの高さから落下したら痛いと感じるのか気になり、友人の家の3階から飛び降りたことも。屈伸で吸収しきれず顎を強打してひっくり返り、あまりの衝撃に動けなかったそうだ。気になったことは、とにかく自分で試さずにはいられないタイプだった。
とりわけ、目に見えない「力」への興味が強かったですね。小学校の入学前に母からもらった永久磁石がキッカケだったと思います。磁力の謎を解明したくて、磁石同士の間に紙やプラスチック、木など1000種類を超える物を挟む実験をしたこともあります。
磁石の次に興味を持ったのが無線でした。なぜ離れた場所なのにコントローラーの指示でラジコンが動くのか不思議だったからです。母にねだって買ってもらったラジコンは、解体することが一番の目的でした。無線の技術が面白くてもっと学びたいと思い、1週間ほどかけて独学で無線に関する工学と法規について勉強した結果、11歳のときでしたか、アマチュア無線の国家試験に合格し免許を取得しています。
初めて会社を「経営」
また、「肉体労働株式会社」と名付けた、家事や雑用を安価な料金で引き受ける事業を自分で立ち上げました。今で言う家事代行のようなものです。食器洗い、洗濯、ゴミ捨て、洗車、窓拭き、包丁研ぎなど、数十品目に渡る営業品目リストを作り、それを持って自宅や祖父母宅、近所を回りました。必要資材を調達するための資金は、母に出資してもらい株主になってもらいました。一品目数円から数十円という破格の値段で引き受けており(今思うと値付け戦略に失敗していたかも?)、親戚などが「面白い」と珍しがって利用してくれました。稼いだお金は、全て新しい実験道具や材料を買う資金に。こうやってお金を稼ぎ、それが消費に回ることで社会が成り立っているんだと身をもって感じましたね。
そしてとうとう小学校を”中退”する
研究室での実験やプチビジネスなどを通じ、小学校5年生頃から徐々に学校教育のあり方に疑問を抱き始める。
道脇:僕は、同じことを同時に習う学校を「量産型ロボット生産ライン」と勝手に名付けていました。このままでは自分も量産ロボットの一体になってしまうと思い、自分はこの「生産ライン」から降り自分の道を模索することを決めました。そこからはほとんど学校には行っていません。たまに行っても、自作のゲームで友人と遊んだりするだけで、授業は一切受けていませんでした。ちなみにこのゲーム、多元的なスゴロク状のモノなんですが、確率で勝敗を計算できるモノで負けたことはありません。
母には自ら、「勉強は決して嫌いではないけれど、今は勉強する時ではないから、今はこの道から降りる。でも、いつか必ず戻ってくるのでそのときまで見守っていてほしい」と宣言しました。義務教育なのでもちろん学校から母親には連絡が行ったと思いますが、母は僕が一度宣言したら絶対に曲げない性格だということを理解していたので、学校に行けとは言いませでしたね。息子が色々なことを経験する中で判断したことを尊重してくれていたんだと思います。
稼いだお金は後の開発費に
道脇:学校に行かなくなってまず、「ちゃんと仕事をしてみよう」と考えました。家事代行ビジネスを通じて、研究室にこもっていては分からない外の世界があることに気が付き、もっともっとたくさんの世界を見たいと思ったからです。手始めに、近所の商店街を「ビラ配りの仕事を引き受けます」と言って回りました。小学生が何を言っているんだと鼻で笑われもしましたが、布団屋の店主が「面白そうね」と僕にチラシの仕事を与えてくれると徐々に他の店舗からも受注が入るようになりました。
12歳で、読売新聞の朝刊の新聞配達を始めました。通常の配達員より給料は安くてもいいので働かせて欲しいと、新聞の集配所を回って自分を売り込んだんです。朝早かったので友人にも学校にも知られていなかったと思います。もちろん母は知っていましたが、僕が言っても聞かない人間だと知っていたので「好きなようにやってみなさい」と静観の構えでした。
家事代行の仕事や新聞配達、チラシのポスティングなどを通じて稼いだお金は、研究の資金に当てたり、無駄使いをせずにコツコツと貯蓄したりしていました。小学校を卒業するころには数十万円はたまっていたと思います。
あまりよく覚えていませんが、小学校の卒業式には卒業証書をもらいに行ったと思います。でも、友人達が中学生になることへの期待感を抱いている一方で、僕は「もっと世の中を知るために仕事の幅を広げたい」と考えていました。僕にとっての小学校時代の全ては、発明家、そして経営者の今につながる基礎を作り上げるためだったと言っても過言ではありません。
なぜ既設の道を降りることにしたのか、それは当時、「なぜ学ばないといけないのか。なぜ人は生きるのか」という根本的な問いへの答えが見つかっていなかったからです。自分が進もうとする道が正しいと言い切れないのにこのまま進んでしまえば、「間違いの絶対値が大きくなる」と感じていました。このリスクを背負うよりも、この道を降りてしまうほうが正しい解だと思ったのです。中学生の年齢になると、僕はさらに職業の範囲を広げて行きました。そう、例えば漁師やとび職などです。
(続く)
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