10歳までを多摩市で過ごす。小学校低学年はとにかくやんちゃな少年だった。
道脇:家から2km強ほど離れた場所にある小学校に通っていたのですが、通学路なんて無視して帰り道は毎日行きと異なるルートで帰っていました。知らない道を通るのが好きだったんです。歩くのは道に限りません。田んぼや川べり、丘や崖を登ったり、下水道の中を通って帰ることにハマっていた時期もあります。地図や方位磁石なんて持っていないので、きっとここを曲がったら家の近くに出られる、ここが行き止まりならあっちを回れば帰れるなどと、頭の中で家までの地図を思い浮かべながら帰っていました。ランドセルの中に入っているのは懐中電灯とロープだけ。勉強道具は常に学校に置きっぱなしにして帰っていました。周囲には、学校に勉強道具を置きっぱなしにすれば忘れ物をする心配がなく合理的だ、と説明していました。もちろん家で勉強などしません。
小学校低学年で身に付いた分解癖
家に帰れば、ひたすら分解をしていました。近所のゴミ捨て場に捨ててあった物などを手当たり次第拾い集め、分解しては組み立て、また壊し、を繰り返していました。ビリッとする程度の感電は日常茶飯事でしたが、さすがにテレビを分解しているときは母に高電圧で危ないからやめなさいと怒られました。当時のテレビはブラウン管でしたので。
車のパーツやレジスターなど、自分の体重よりも重い物を引きずりながら家まで持って帰り分解したこともあります。一体どういう仕組みでこれは動いているのか、この部品はどんな役割をするのかなどを自分なりに調べ、頭に叩き込んでいきました。好きな形のバネやレバー、電気抵抗、キャパシタなどは、まるで宝物のように大切に手元にとっておきました。

勉強はよく出来ました。なぜと聞かれても上手く答えられないのですが、帰り道のルートを頭の中で考えたり、色々な電子機器を分解したりしている間に自然と発想力や計算力が身に付いていたのだと思います。実験がたくさんできる理科は好きでしたが、算数の授業は一番退屈でした。
記憶力もこの頃からよかったと思います。必要性を感じると自然に覚える、と言ったほうがいいかもしれません。逆に、必要だと感じられなければ全く覚えられないんです。大人になった今でも、ふと自分が今どこにいるのか急に分からなくなってしまうことが多々あります。考え事をしながらふらりと電車を降りて、あれ、ここどこだ、となってしまう。もしかしたら齊藤さん(記者)と初めて会った日もそうだったのかもしれません。あの時は大変失礼しました。
母の研究室に通い始める
大学教授の母から、勉強しろと言われたことは一度もありませんでした。と言うよりも、研究で忙しかった母は平日も帰ってくるのがとても遅かったので、僕が毎日泥だらけで遊び呆けていることは知らなかったかもしれません。
母は本当に研究熱心で、休日にも関わらず一日中大学の研究室で過ごしていることもよくありました。小学校への入学前後くらいでしょうか。あまりにも休日家にいるのが退屈だったので、母に「僕も研究室に連れて行ってほしい」と自分から言い出しました。恐らくこれが、僕の発明家人生の始まりだったと思います。(続く)
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