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 無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家--。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない。

 日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ。そんな思いを込めて2018年9月に発売されたのが『セゾン 堤清二が見た未来』だ。

 本連載では、堤氏と彼の生み出したセゾングループが、日本の小売業、サービス業、情報産業、さらには幅広い文化活動に与えた影響について、当時を知る歴史の「証人」たちに語ってもらう。

 連載第14回目に登場するのは、イープラスの橋本行秀会長。セゾングループが悲願の銀座・有楽町地区に、有楽町西武をオープンしたのが1984年。有楽町西武は、物販業としての百貨店の枠を超えて「コト消費」を目玉にしてスタートした。この時、同店内から開始したのが、チケット販売大手・イープラスの前身であるチケットセゾンだった。堤清二氏はチケット事業にどのような思いを込めていたのか。イープラスの橋本行秀会長に聞いた。(今回はその後編)。

イープラスの橋本行秀会長

インタビューの前編では、チケットセゾンがスタートするまでの経緯を伺いました。チケットセゾンは、利益を出すのに苦戦したそうですね。

橋本行秀氏(以下、橋本):僕もチケット事業は初めてで、事業の構造がよく理解できないうちに始めていました。当時、チケット事業はぴあと、セゾンが始めて、その後、ほかの会社も多く参入し、競争は激化していきました。

 最初、セゾンは仕入れたチケットを売った時に興行主から徴収する手数料を12%としていました。ビジネス的には合うだろうという計算でした。けれど、次々に競合が出てきたこともあり、手数料がどんどんと下がっていきました。

 構造的な問題もありました。チケット販売は、拠点ビジネスでもあります。例えば百貨店のある店舗でチケットを売った場合には、我々が興行主からもらった販売手数料のうちの一部を、販売手数料として店舗に支払っていた。

 その上で、プロモーションのために新聞広告を打つなど、販促費が結構かかってしまいました。

 チケットぴあは自前の雑誌「ぴあ」を持っていたから、その雑誌上で販促すればいいが、我々はそうはいかない。その上に、情報システムの費用や、人件費などを入れると、どうしても収益的に苦しかったのです。

収益が厳しいこともあって、セゾングループ内でチケットセゾンの資本構成は変わっていったわけですね。

橋本:チケットセゾンが始まって5年ぐらいは、収支抜きに「ああチケットセゾン、すごいことをやったね」と社内で言われていました。存在感やブランドイメージで、社内外からもてはやされた時代があったのです。

 「チケットぴあ」ほどの事業規模はなかったですが、知名度は高く、ぴあとセゾンは「2大ブランド」ではあったので。しかし、チケットセゾンの創業から5年を過ぎた辺りから、西武百貨店の関係者などから「あれは儲からないんじゃないか」と言われるようになっていました。

 1990年前後になると、百貨店の経営もあまり良くなくなっていて、赤字事業を整理する段階に入っていました。

 そこで検討に上がったのが、セゾングループ内の西友への移転でした。

 西友傘下にあったエス・エス・コミュニケーションズという会社はもともと、「西武タイム」という雑誌社でした。当時は料理雑誌「レタスクラブ」が大ヒットしていて、会社として調子が良かった。だからぴあを参考に、雑誌とチケットという2つの事業を組み合わせることができると考えられたのです。

 そこで、西武百貨店にあったチケットセゾン事業を1990年に、西友系のエス・エス・コミュニケーションズに移管しました。