「ナビゲーター」はJ-WAVEが生んだ
J-WAVEでは、パーソナリティーのトークもかなり特徴的です。
大倉:それまでラジオの司会者は「ラジオ・パーソナリティー」と呼んでいました。「ナビゲーター」という表現を使い始めたのはJ-WAVEが初めてです。J-WAVEはほとんどのナビゲーターがバイリンガルですよね。トークに英語が混じっていて、リスナーは内容が分かっても、分からなくても気持ちがいい。
僕が聴いていても、時々何を言っているのか分からないことがよくありました。ただ、それがある種の「アップスケール感」だった。そういうインパクトは強烈でしたし、作り手もそこを相当、意識していました。
しかも朝のジョン・カビラさんの番組では、いきなりアメリカのホワイトハウスに電話をかけたりして、めちゃくちゃなことをやっていました。英語で「どちら様ですか」と聞かれて、「東京のJ-WAVEと申します。今ライブで放送中ですが……」と答えたら、怒られて、切られて(笑)。中途半端じゃないところまで振り切っていました。
音楽は洋楽を中心にかけていました。当時の英語のラジオ放送といえばFEN(米軍向けのラジオ放送)がありました。そういうものに対する憧れはあったけれど、聴きにくくもあった。そんなところに、J-WAVEが英語にのせながら洋楽を紹介して、注目を集めたわけです。
独特の個性があったからこそ、J-WAVEは開局直後から一世を風靡したそうですね。
大倉:当時は、どこに行ってもJ-WAVEがかかっていました。喫茶店に行っても、美容室に行っても。デザイナーの事務所でも皆さんJ-WAVEを流していたんじゃないかな。もう、世の中が一色に染まってしまいましたから。
それまで多くの人は、自分の好きな曲をカセットにダビングして、それをクルマに持ち込んで聴いていました。J-WAVEが開局前に試験放送を始めた時、「ようやくクルマにカセットを持ち込まなくてすむ」という声をよく聞きました。J-WAVEをかけていれば、ずっと気持ちのいい、自分たちの聴きたかった曲が流れてくる、と。
おそらく当時J-WAVEを聴いていた層は、セゾン文化の客層と重なっていたのではないでしょうか。1988年はまだセゾンの経営がおかしくなっていない時ですから。
「これからのライフスタイルを提案する」と言っていた時代です。今では「ライフスタイルを提案する」と言われるとちょっとしらけてしまいますが、当時はコピーライターの糸井重里さんや仲畑貴志さん、アートディレクターの浅葉克己さんが、そんな流れをつくっていました。
僕は実は、J-WAVEの準備に携わる前は、電通でサントリーの広告の仕事に関わっていました。そこで浅葉さんや糸井さん、仲畑さんともご一緒させていただいたことがあります。その頃はサントリーの仕事で、浅葉さんの事務所に夜中の12時に行くと、打ち合せで西武の人たちがずらっといらしていました。
当時の僕は若手ですから、前の打ち合わせが終わるまでずっと待っていたんです。若いデザイナーたちと一緒に(笑)。サントリーのCM文化が特に輝いていた時期でもありました。ですから作り手も、セゾングループと重なることがあって、浅葉さんの時間の取り合いのようになっていましたね。
(後編に続く)
Powered by リゾーム?