ライフスタイルを提案するラジオ局

J-WAVEの編成には色々な企業の出身者が関わっていたそうですね。

大倉:制作課長は元々エフエム東京にいた人で、文化放送から来た人が編成課長。当時、非常に面白いと思ったのは、役員がほとんど編成側に口を出さなかったということです。現場で色々決めていた人たちはみんな40歳前後。僕もその頃は30歳くらいでした。

 当時、電通は(1970年に開局した)エフエム東京で大きな後れを取っていました。博報堂のシェアが高くて、FM界の中で電通は存在感を示せないでいた。だから、何とかして第2波ではと事前の準備に相当時間をかけて、そのために僕が張り付いていたのです。

J-WAVE開局当時は、番組構成なども非常に特徴があったと言われています。

大倉:1988年当時、エフエム東京は邦楽をかけることにこだわっていました。編成は細切れだし、トークもずいぶん多かった。ですから現場にいた僕たちは、J-WAVEでは逆のことをすればうまくいくのではないかと考えました。

 実はFMヨコハマが、J-WAVEの少し前に開局していて、そこで大体の方向性は見えていたんです。彼らがやっていることをさらに洗練させて開局すればほぼ間違いないのではないか。そう考えていました。

 J-WAVEは東京だけで広告を打ちたいスポンサーにマッチします。そういった引きは数多くありました。そこも狙い目で、東京のリスナーに向けた放送として、かなり特色を打ち出しやすくなりました。

新しい取り組みに対して、広告を出すスポンサーなどはどんな反応でしたか。

大倉:当時、J-WAVEは「アップスケール」という不思議な言葉を使っていました。今から考えるとバブルの中の本当に調子に乗った言葉だったのだと思います(笑)。例えば「DINKs(こどものいない共働き世帯)」のような生活。可処分所得があって、文化的にも知的欲求が高くて、といったライフスタイルを示すと言えばいいんでしょうか。

 もちろんそれは、あくまでもスポンサーに対する説明で、リスナーに対してそんなことは言いませんでした。ただスポンサーに対して、「アップスケールをターゲットにする」と説明すると非常に響いていました。バブル経済の真っ只中ですから、みんなが浮かれ気味だったのでしょうね。

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