堤清二の辛辣な言葉が作家・林真理子を生んだ
作家・林真理子氏が語るセゾングループと堤清二(前編)
無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家--。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない。
日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ。そんな思いを込めて2018年9月に発売されたのが『セゾン 堤清二が見た未来』だ。
本連載では、堤氏と彼の生み出したセゾングループが、日本の小売業、サービス業、情報産業、さらには幅広い文化活動に与えた影響について、当時を知る歴史の「証人」たちに語ってもらう。
連載第9回目に登場するのは、作家の林真理子氏。文化人を多く世に輩出したセゾングループ。作家の林真理子氏もその一人だ。セゾングループ内の西友のコピーライターとして働いていた1981年、「つくりながら、つくろいながら、くつろいでいる。」というコピーで、東京コピーライターズクラブ賞新人賞を獲得。その後、堤清二氏からかけられた言葉がきっかけとなって作家を志したという。そんな林氏に経営者や文化人としての堤清二像を聞いた(今回はその前編)。
作家の林真理子氏(写真/竹井俊晴)。日本経済新聞の朝刊連載小説『
愉楽にて』が一冊の単行本となって、11月20日に発売される。
林さんは、西友で働いていた当時にコピーライターとして、新人賞を獲得しました。
林真理子氏(以下、林):私が27歳の時ですから40年近く昔のことになります。
当時は西友に週に3回通っていました。西友の課長さんがすごく私のことをかわいがってくださって。日曜大工のお店をつくるプロジェクトのキャンペーンで、ポスターの仕事を初めてやらせてもらいました。
当時、林さんの抱いたセゾングループの印象を教えてください。
林:当時の勢いはすごかったですね。広告といえば西武か伊勢丹でしたから。流通が、あらゆる業界の中でも花形とされていた時です。
1980年代に西武系のクリエーターでパーティーをした時のことも覚えています。浅葉克己さんや糸井重里さん、仲畑貴志さん、小池一子さん、田中一光先生などもいらしていて……。秋山道男さんもいましたね。キャビアも出てすごいパーティーだったの。
今で言うと、秋元康さんがいて、落合陽一さんがいて、茂木健一郎さんがいて……という感じでしょうか。
あの頃は、文化の香りがありました。当時、ちょうど教養やサブカルチャーという言葉が出てきた時なので、あの空気をどうやって若い人にお話ししたらいいのか、非常に難しいですね。
今、スターと言われるような人がやっている「生活を提案する」ようなことが、もっと大きなスケールで40年前にやられていました。
(セゾングループが手掛けた音楽や映像などの文化の発信地である商業施設の)「WAVE」という本当に画期的な取り組みもありました。当時、私は六本木のWAVEには何度も行きましたし、YMOもよく来ていましたね。
セゾンを舞台に、いろんな文化人が交流していたわけですね。
林:パーティーをきっかけに秋山道男さんなどと知り合い、西友で、子供のためのPR誌『熱中なんでもブック』をつくることになりました。
これもちょっと伝説に残るくらい面白い雑誌でした。
『熱中なんでもブック』の編集として参集したのが中野翠さんと、まだ有名ではなかった頃の(イラストレーター兼エッセイスト)南伸坊さん、(写真家の)伊島薫さん、そして私でした。そういうクリエーターが集められて、子供のための雑誌を真剣につくっていたんですね。
『熱中なんでもブック』の編集はとても楽しかったですね。秋山道男さんは、何というのか新宿のサブカル的な人脈を持っていました。「漫画家の高信太郎さんがアントニオ猪木の物まねがうまいから、それを記事にしよう」なんてこともありました。
なんだかよく分からないことをしていたのだけれど、堤さんはそれを上の方から見ているような感じで、すごく面白かったんです。
『熱中なんでもブック』そのものは「子供のためのファンキーな雑誌」という位置づけなのだけれど、つくっているのは、サブカル的なにおいのぷんぷんする秋山道男さんです。
そういったものも含めて、みんな堤さんがつくり出したものです。彼は正統派の教養人だけれど、ファンキーなサブカル文化も理解できる。多様というか、まあ、すごい人でした。
「出来損ないの現代詩」
堤清二氏のエッセーの中でも、林さんのことが触れられています。当時はどのようなやりとりがあったのでしょうか。
林:コピーライターとしてプレゼンテーションに参加した時、堤さんに「君のコピー、ひどいね」というようなことを言われました。
私は末席にコピーライターとして控えていただけで、直接はほとんど口をきいていません。
それでも、つくったコピーが「出来損ないの現代詩」と言われたのはよく覚えています。もう、周りの人は真っ青ですよ(笑)
当時、堤さんは広告などのクリエイティブなものは小さなものもすべて見ていました。
堤さんは、私が作家になった後も「君はコピーライターの素質がないって僕があれだけ言ったから、今の林さんがあるんだよ」とよくおっしゃっていました。
私が西友にいた当時の堤さんは、みんなにとって雲の上の人。もうすごい威厳がありました。普段、雑駁な格好をしているフリーのクリエーターですら、みんな堤さんの前に行く時にはネクタイを締めていて。
新しい支店長があいさつに行ったら、緊張のあまり卒倒して、堤さんご本人が直接ネクタイを緩めてあげた、という話もあったくらいです。だからこそ、どうして(『熱中なんでもブック』のような)ああいう下世話なこともよくご存じだったかな、と不思議なんです。
林さんをはじめとして、セゾンから巣立ち、今なお活躍する文化人は多いですね。
林:私は1982年に初のエッセイ『ルンルンを買っておうちに帰ろう』を発表しました。これも『熱中なんでもブック』をつくった時に、雑誌「主婦の友」の編集者と知り合って、そこからつながっていったんです。
先日亡くなった秋山道男さんもセゾングループで活躍した後、いろいろな映画をつくりました。(1984年にベストセラーとなり「マル金」「マルビ」などの言葉で流行語大賞を得た書籍『金魂巻(きんこんかん)』を書いた)漫画家の渡辺和博さんなども、みんな当時の仲間でした。
これだけ文化をつくった企業は、ほかはサントリーくらいではないでしょうか。イオンやTSUTAYAがこれほど多くの文化人を輩出したかというと、していませんからね。
(セゾングループで活躍したクリエイティブディレクターの)小池一子さんのところで働いていた原田マハさんにお会いしました。小池さんと原田さんは今も親しくしているようなんですね。そう考えると、原田さんは堤さんの孫弟子のようなものですね。
原田さんは今、本当におしゃれな文化人の代表になっています。そう考えると、堤さんのまいた種が、現代でも確実に実になっているんですよね。
若い女の子がちょっと部屋に絵を飾って、ヨーガンレールのような感じの生成の木綿の服を着るというライフスタイルが生まれたのは、セゾン文化があったからだと思います。
お金では買えない「センス」をセゾンが生んだ
セゾン文化の前には、そういったカルチャーはなかったのでしょうか。
林:ありませんでしたよ。それまでは、誰もが生活に必死でしたから。みんなが四畳半の自宅から、1DKに住むようになった頃のことです。
そんな時に西武百貨店が「おいしい生活。」という広告を展開しました。
広告が本当に力を持っていて、コピーライターがスターだった時代。それまではあり得なかったことです。やっぱり仲畑貴志さんや糸井重里さんの影響力は大きかったですからね。
なぜ、セゾングループは文化を生み出すことができたのだと思いますか。
林:まあ、時代背景もありますね。
当時は新しい生活スタイルがちょうど芽生えた頃です。それがどういうものか、みんなが分からなかった時に、パルコが一挙に伸びて、「センス」という概念が出てきました。
センスはお金では買えません。それまでの「頭がいい」とか「美人」だとか「勉強ができる」とか、そういうものとは全く別の、人を判断する価値観が生まれてきた頃です。
スタイリストという職業が生まれて、洋服の着こなし、おしゃれな生き方がすごく問われるようになりました。
私も含めて、当時はほとんどの人が、田舎から都会に出てきた人ばっかりでしたから、そういうものがなかなか分からなくて。みんな洋服を真似するのだけれど、分からない。当時はユニクロもないし、オシャレな既製服がとにかくありませんでした。
そんな当時の私たちにとって、パルコに買い物に行くのは、ものすごくオシャレなことでした。「センス」という新しい価値観を教えてくれたのがセゾン文化だったのでしょうね。
しかも堤さんは、ブランド品がもてはやされる全盛期の少し前くらいに、「わけあって、安い」というコンセプトで無印良品をつくりました。その後で「シンプル・イズ・ベスト」という言葉も生まれて。時代の先、先に、どんどんと進んでいる感じがありました。
当時輝いた無印良品は、今も立派に残っています。これはすごいことですよね。私はあの時、無印良品がここまで長く続くとは思っていませんでした。あの頃の無印良品は、今とは品ぞろえが違っていましたから。
お金の集まるところに文化が生まれる
時代の半歩、一歩先を行く堤さんの発想を実現した当時の社員もすごかったのでしょうね。
林:私のことをかわいがってくれた西友の宣伝課長さんはまだ若かったけど、抜擢されて、好き放題にやっていました。堤さんは才能ある人を見抜く目利きだったのではないでしょうか。
それも当時は広告宣伝にふんだんにお金を使っていました。どうでもいいような広告のために、みんなでロサンゼルスまで出張して。「つまらないコピーをつくってるな」って思ったことがありましたもん。
もちろんバブルだったというのもあるかもしれません。けれどやはり広告は、好き放題のことをやらせなきゃダメですよね。マスコミもそうでしょう。
私はマガジンハウスの全盛期、みんなが使いたい放題にお金を使っていた頃のことをよく覚えています。やっぱりお金が集まるところで文化が生まれるし、文化が生まれるところにお金が集まる。相乗効果なんですね。
林さんから見た堤さんはどんな経営者でしたか。
林:下で働いていた人の中には、堤さんのことを怖いと言っていた人がたくさんいました。優しくて穏やかな方だとこんな大きな仕事はできませんので。
私が堤さんの本当のすごさを知ったのは、毎日出版文化賞の選考委員でご一緒させていただいた時です。文学部門、科学、自然科学、人文科学、特別賞と分かれていて、私は特別賞と文学を担当すればいいと言われていました。
「アリの生態」なんて質問されても当然、分かりません。そんな時に私は「パス」と言っていたのだけれど、選考委員長の堤さんは信じられないことに、それぞれの部門で7冊くらいの候補作を、すべて読んでいました。
しかもすごく上手に「このテーマは誰々先生のご専門ですね」と選考委員にテーマを振り分けていました。その知識量には驚きましたよ。
もちろんご自分でもちゃんと内容が分かる。自然科学や人文も、学者さんレベルの知識でした。「私も読んでみましたが、やっぱりこれは賞に値しますね」という感じで的確にコメントされていたのを、今でも鮮明に覚えています。
(後編に続く)
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