もう、面白い人は生まれない
大衆に文化的な生活を提示したセゾングループの黄金期の取り組みは、階層化が進む現在の社会や消費の在り方に対する「アンチテーゼ」のようにも思えます。今のように階層移動がなくなってくるとどんな社会になるのでしょうか。
上野:固定的な社会ですから、あまり面白い社会ではありません。面白いことをやる人たちも登場しません。とんがった人や変な人も、登場しにくくなるでしょう。
才能と、それを生み出す時代がマッチングしないと面白い人は生まれませんから。例えば坂本龍馬は、ああいう激動期に生まれたからあれだけのことを成し遂げられた。けれど今、坂本龍馬がいたとしても、やることはありませんよね。
堤さんにも、そういうところがありました。堤さんは昭和の激動期に経営者になって、しかも父親に盾突いた。もともと正妻の子供ではなく、正統な生まれではないという負い目を持って、逸脱的なスタートを切った人です。
その逸脱者がうまく世の中にマッチングできる時代だったわけです。
しかし、バブル崩壊という世の中の激変の中で、セゾングループと堤氏は荒波に飲み込まれました。
上野:そうした後退期というのは、前進戦よりも撤退戦の方がはるかに難しくて、撤退戦を戦う将の方が能力を問われます。
百貨店業が時代の中で歴史的な使命を終えつつある時に、どんな智将が采配を振るっても、歴史の流れを押しとどめることはできないでしょう。敗軍の将というのは悲劇だろうと思いました。
ただセゾングループの場合は、不動産など、いろいろなところに手を出しすぎたという事情が大きかったのですが。
上野さんは、辻井喬氏、つまり堤氏との対談を収めた共著『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書)を2008年に出版しています。なぜ、この本を出そうと思ったのでしょうか。
上野:その時既に、堤さんは過去の人になっておられました。でも、この人はちゃんと日本の戦後の消費社会史の中で、歴史として残す価値のある人だと思いました。
彼はセゾングループの巨額負債の処理に伴って私財を投じるなど、一定の責任を取った後でした。
こうした答えが出た後に、この人のやってきたことをもう一度、ご本人の言葉で語ってもらおう、と考えました。
ただし、よいしょするのではなくて、ちゃんと私が聞きたいことや聞くべきことを聞き出した上で。対談に向けては相当、準備をしました。それだけの価値のある人だと思いました。
この本をつくった最後に堤さんは、作家として使っているペンネームの「辻井喬」で出してくれ、と言われました。ですから著者名は辻井喬になっています。「困ったな」と思いました。私は堤清二と対談したつもりでしたから。
堤清二よりも辻井喬の方が大きかった、辻井喬の中に堤清二がいたのでしょう。きっとご自身のアイデンティティーはそこにあったのだと思います。
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