堤さんは人間としての理想を語り続けた

どうして堤さんは、30年も先の世界を予想することができたのでしょう。

三浦:半分は自分の理想でしょうね。僕もよく「それは予測ですか、それともあなたの価値観ですか」と聞かれることがあるけれど、それは両方です。

 経営者としての目標ではなく、人間としての理想があって、希望から言えば、そちらに多くの人が近づいてほしい。堤さんはその理想を共有してほしいと思っていたと思うんです。共有するために無印良品をつくり、つかしんをつくった。

 一方で、消費社会の歴史を論理的に積み重ねて考えた時、きっとそういう人が増えるだろうと予測していたのだとも思います。

 ただ僕の予測もそうだけれど、絶対に過半数にはならない人のことを話している気がします。0.1%だったものが、最後は20%か30%ぐらいになるかもしれないとは思いますが。

 バブル時代までの一般のビジネスパーソンの中では、「堤さんか、(ダイエーの創業者である)中内功さんか」と言えばやはり、中内さんの方が支持者は多かった。

 中内さんに比べると、堤さんは言っていることがよく分からない。メジャー志向ではありませんでしたから。

 結局、堤さんの取り組みは、後発だったからできたことなのでしょうね。

 堤さんが、三越の社長を任されたら同じことができたかというと、また違うでしょうから(笑)。潰れそうな西武百貨店を押し付けられた。そこから彼の経営者人生が始まったから、老舗の三越や高島屋がやってないことをやるしかなかった。それが良かったのでしょうね。

三浦さんの、セゾングループとの最初の出会いについて教えてください。

三浦:今でも覚えているけど、1977年に池袋の友人を訪ねた時に、たまたま西武池袋に紛れ込んだんです。入ってみると夢のような場所でした。夢遊病者のように店内を歩きました。

「何だろう、ここは」と思ったわけです。当時の僕は田舎から出てきたばかりだから、三越も伊勢丹も高島屋も知らなかったけれど、西武はまるで百貨店というものとは違って見えました。

 その後の接点は広告です。僕は(糸井重里氏が手がけた西武百貨店の)「おいしい生活。」はあまり好きではないけれど、「じぶん、新発見。」と「不思議、大好き。」は好きでした。

 もちろん、それよりパルコの石岡瑛子さんや山口はるみさんの広告の方が、より衝撃的でしたんで、それでパルコに入ったんですけどね。

その頃のパルコはかなり先鋭的だったのでしょうね。

三浦:中にいると当たり前だから、別に先鋭とも思っていなかったし、入社した1982年頃はパルコの広告のピークは過ぎていました。既に石岡さんはアメリカに行っていましたし、ピークはやはり1970年代後半ですから。

 公園通りの全盛期も1979年だったと、当時を知っている人は言います。ものすごくかっこいい人が歩いていた、と。

 僕が入った頃はパルコはもう大衆化して、ファッション誌の『JJ』を読んでいる女子大生や、(ブランド好きな女子高生などの)「クリスタル族」が対象という感じでしたから。それより前には、もっとすごくかっこいい人が歩いていたよ、という噂を聞いていました。