無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家——。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない。
日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ。そんな思いを込めて2018年9月に発売されたのが『セゾン 堤清二が見た未来』だ。
本連載では、堤氏と彼の生み出したセゾングループが、日本の小売業、サービス業、情報産業、さらには幅広い文化活動に与えた影響について、当時を知る歴史の「証人」たちに語ってもらう。
連載第6回目に登場するのは作家の永江朗氏。1970年代以降、広告や文化で一世を風靡したパルコや西武百貨店。その実情はどうだったのか。1980年代にセゾングループの洋書店に入社し、その栄枯盛衰を間近で見てきた永江氏に聞いた。(今回はその前編)

永江さんは2010年にセゾングループ関係者へのインタビューをまとめた『セゾン文化は何を夢みた』(朝日新聞出版)を出版しています。
永江朗氏(以下、永江):「堤清二が道楽の芸術にうつつを抜かして大きな損害を出しことが原因となって、セゾングループは潰れた」といったことが世間で流布されていました。だけど実際はそうじゃないんだということを、あの本で立証したいと思ったんです。
インタビューした人の中には、紀国憲一さんという百貨店の文化事業担当の役員もいました。
彼は「セゾングループが文化事業部で使える予算は、最初から宣伝費の1割と決まっていたから、決して堤さん個人で浪費はできなかったんだよ」と言っていました。イメージと現実の違いがあったんだな、と思いましたね。
もともと西武百貨店は”田舎の三流百貨店”でした。私たちも「ゲタ履きデパート」と言っていました。ゲタ履きでそのまま訪れることができる、それくらい客を選ばないという意味です。
庶民的といえば庶民的だけれど、三越や髙島屋とは格が違う。だから、高級で先進的なイメージを作らなければならなかったんです。
また郊外の新しい消費者、当時の言葉で「ニューファミリー」と言われたような人たちを引きつけるためのイメージづくりをやってきたんだ、と堤さんご自身も紀国憲一さんも言っていました。
永江さんは西武百貨店の洋書店であるアール・ヴィヴァンに1981年に入社しています。当時はちょうど、セゾン文化の全盛期。池袋の西武百貨店では、1975年に9期増床が終わっていました。
永江:「9期」「10期」「11期」という増床計画は、実はソ連の計画経済のやり方なんです。
堤さんは、やっぱり亡くなるまで共産主義者、コミュニストだったんだなと思います。旧共産党の人たちや社会党の左派の人たちともずっと太いパイプを持っていましたし、(セゾングループが)ソ連や中国と貿易できたのは、堤さんの存在があったからという事情も大きいと思います。
計画的に池袋の西武百貨店を増床する中で、9階から12階までがカルチャーのゾーンとしてつくられていって、それが完成しつつある頃に私は入社しました。
永江さんも、西武百貨店やセゾングループがつくるカルチャーに魅了されたのでしょうか。
永江:そうですね。1975年には西武百貨店の最上階に「西武美術館」がオープンしました。現代美術をあんなふうに積極的に紹介する美術館は、国公立でもほとんどなかった時代です。
美術はまだしも、セゾングループが後援していた現代音楽などは当時、全国に1000人、2000人くらいしかファンがいなかった時代です。
それでも、パルコ劇場では「ミュージック・トゥデイ」という、音楽家・武満徹さんが監修した音楽祭を、西武美術館ではオノ・ヨーコさんの最初の夫だった一柳慧さんがプロデュースした「ミュージック・イン・ミュージアム」を開催していました。
「毎年同じ人たちが、同じような題目の展覧会とかコンサートをぐるぐると回しているね」なんて皮肉交じりに言っていたくらいマイナーではあったんです。
ただ美術出版の「美術手帖」や「季刊みづゑ」(ともに美術出版社)、「芸術新潮」(新潮社)といった、芸術関係の雑誌がそれなりに成立していたんだから、少ないながらも、熱心な人たちがいる時代だったのだと思います。
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