西武線の駅前書店は妙に知的だった

西武線周辺の街には、独特の雰囲気があったのでしょうか。

大塚:当時、西武線の駅前の書店は、妙に知的でした。物を書くようになって、一時期だけ格好をつけて成城に住んだ時に、驚いたことがあります。それは成城学園前駅前の書店にはろくな本がなかったのです。本の並び方も雑だし、いいかげんな印象だったんですね。

 一方で、西武線駅前の書店は、小さくても総合書店のようでした。変にマニアックな漫画がきちんと置いてある一方で、思想書も網羅してあった。ニューアカにも敏感に対応していました。あくまで僕の印象ですが、西武線沿線に住んでいた人たちというのは、書物に対して相応のお金を使っていたのではないかと思います。

一気に広がった記号論的消費とセゾングループは関係しているのでしょうか。

大塚:当時、「コム・デ・ギャルソン論争」が起こりましたが、あれは中流化をめぐる論争でした。

 コム・デ・ギャルソンの服を巡って、「労働者からの搾取で作られた」と言う埴谷雄高と、「日本の若者が中流になってこういう服を買えることは喜ばしい」と言った吉本隆明の論争です。吉本隆明は「重層的な非決定」、つまり記号に上下の階級はない、消費社会は皆平等なんだと言いましたが、実際に繰り広げられたのは「差異化のゲーム」でした。

 記号の操作によって何かを変えられる。DCブランドを買うことで、いきなり違うものに自分を装うことができる。そういうマーケティングです。

 その中でブランドを身に着ける子たちとそうじゃない若者が、「新人類」と「おたく」に分かれていったとイメージされていますが、それこそが「差異化のゲーム」です。

 それを「なーんだ、捜していたのは、自分だった。」といったセゾンカードの広告コピーが象徴するような、消費による自己実現と言ったのがセゾングループの思想でした。

 1990年代後半は、消費によって満たされない自己実現の要求が、自己啓発セミナーのブームやカルトの流行になっていくのですが、自己実現と消費を結び付けていったところが、セゾングループの大きな特徴だったわけです。

堤清二が信じた「近代的個人」

セゾングループはなぜ、時代の流れを捉えられたのでしょうか。

大塚:堤清二自身が「ユートピアニズム」と言っていますが、セゾングループは、歴史のパースペクティブのようなものを提示する思想があった企業です。そこが特異だった。

 堤清二は、街だけではなく、文化や未来をつくれると思っていました。しかもそれが「科学的な未来ではなく、社会科学的な見通しに沿ってやっているな」という妙な感覚が僕にはありました。それが堤清二の左翼的な部分ですよね。

 古い言い方だけれど、多分、堤清二の中にあった消費者は、「国民」ではなく「市民」、それも「近代的な個人」だったのだと思います。そういうものを企業がつくれると考えていたわけです。「近代的な個人」をつくることによって、「近代」が成し遂げられるという考え方が、やはり堤清二の基調にあったのでしょうね。

 中流幻想を企業が実態化することで近代を可能にする。啓蒙とは違うけれど、近代的個人をセゾンによって育てようとしていた感じがありますね。