「サテライト店」で収益を最大化、そして上場へ

71年に1号店を開店して80年には264店まで拡大しました。さらに、90年には776店まで増やしていますね。

下平:ところが90年代になるとドライブスルー店の出店がぴたっと止まってしまいました。大型なのである程度出店すると、もう大型店を出店する余地がなくなってしまいます。大型の店舗ですから出店にはかなりお金もかかります。その意味では出店すべき場所がなくなってきたのです。

 そのため50席程度の比較的、小規模のドライブスルー店を作り始めました。いわゆる「サテライト店舗」です。大型店の周辺に、サテライト店を出店し、小さな商圏をしっかり押さえていく戦略です。これなら、投資も抑えられますので。

 これが3度目のビジネスモデルの変革で、1990年から1993年ごろまで続きました。それが1つのヒントになって、グローバルでもサテライトという考え方が出てきました。これにより、マーケットをくまなく押さえ、売り上げを最大化する戦略です。

取りきれないマーケットを小規模な店舗で埋めていくわけですね。

下平:そうです。例えば10あるマーケットに大型店を出しても5~6しか取れない。同じマーケットにさらに大型店を出すことは意味がありませんし、仮に出したとしても残りの4~5は取れません。そこで、このマーケットの中核となる大型店に対してサテライトと呼ぶ小さな店舗を複数出すことで、10に近いほぼ全部のマーケットを取っていこうというわけです。

 この戦略は成功し99年には3000店を超え、当時の最高益を達成しています。当社は2001年に上場しますが、それをひかえビジネスモデルを最大化したわけです。

 そこにBSE(牛海綿状脳症)問題が起きました。2001年に発生したこの問題で厳しい経営環境に追い込まれて、今まで店舗を拡大したことが、今度は逆に出し過ぎの状態になってしまった。2003年に藤田さんが会長を退任し、2004年に原田泳幸さんが当時のアップルコンピュータからマクドナルドに来て社長に就任しました。

 原田さんは戦略的閉店でサテライト店を閉じて、ドライブスルーの大型店を主体にやっていこうとするビジネスモデルでした。これが4度目の変革です。

この間、フランチャイズとの関係も変えていますね。

下平:藤田さんの時代には地区本部制がありました。原田さんがこれを廃止して、私がまた地区本部制を導入しました。藤田さんの時代の地区本部制は今と違って事業本部制のように機能していました。

 当時は米本社に対してある意味、藤田さん自身を含めて日本マクドナルド自体が1つの大きなフランチャイジーでした。日本に根ざしてマクドナルドのシステムを広げたいと考えた。ですから、藤田さんがいらしたときまでは、1つのフランチャイジーとしてのビジネスモデルだったと思います。