日本の百貨店業界は過去の成功にしがみついてきた

奥田さんは長い経営者人生の中でも、大丸の再建や松坂屋との経営統合、パルコの買収、大丸ピーコックの売却、さらには銀座や上野の再開発計画の策定など、本当に数多くの重要な決断を下しました。トップ交代以外にも小倉さんから学んだことはありましたか。

奥田:小倉さんは企業相手の運送業から、自身が創出した全く新しいビジネスモデルである個人相手の宅急便へと、会社の進路を変えました。

 私は30代の頃に米国留学し、米国の百貨店で働き、その後は大丸オーストラリアの社長を務めました。海外の百貨店の潮流を見ていれば、業態として百貨店業が厳しくなっていくことは、1980年代から予測されていました。

 欧米で、百貨店が小売業の王者として君臨していたのは1980年代までのことです。日本ではたまたまバブル経済が1980年代後半に発生したため、百貨店業界は判断を見誤ってしまった。旧来の成功体験に浸かって、宅急便のように、新しい事業を創出できなかったのです。過去の成功体験にいつまでもしがみついて、離れることができなかった。百貨店業界の誰もが思考停止に陥っていたのです。

奥田さんはそれを大胆に変えてきました。

奥田:1997年に大丸の社長に就いて、2013年にJ.フロントリテイリングの相談役に退くまで、私がやってきたことを一言で表現すれば、それは百貨店のビジネスモデルの変革です。自分たちの手でモノを売るという従来型の百貨店のビジネスモデルから、テナントビジネスへと方針を変えていったのです。

 極端なことを言えば、日本の百貨店は今や立派な場所貸し業になっています。売り場だけは用意しますが、そこにブランドを誘致し、ブランド側のスタッフが商品を売っている。これはテナントビジネスと言えるでしょう。

 私が大丸に入社した1960年代から1970年代は、まだ百貨店がリスクを取って商品を買い取り、売り切るような売り場が、全体の60%〜70%くらいありました。けれどその後、日本の百貨店は次々にテナントビジネス化していって、今ではブランド側に任せている売り場が全体の9割以上を占めています。そしてもうテナントビジネスから引き返すことはできなくなっている。

 それなのに、なぜか百貨店の社員は、商品を自分たちで仕入れて、在庫リスクを取って、自分たちの力で売っていると勘違いしているのです。繰り返しますが、もう実態は、ブランドに任せきっているテナント業なのです。それなのになぜか、百貨店の社員は自分たちが商売をしていると思い込んでいる。モノの見方を切り替えられなかったから、百貨店はコストだけが高くついて、利益を生み出しづらい業態になってしまったのです。

 そもそもテナント業の場合、商品の仕入れも在庫リスクも販売も、全てはテナントに任せるものです。ですから百貨店の中にバイイングという仕事は必要ありません。そこでJ.フロントリテイリングでは、「バイヤー」という職種をすべて「デベロッパー・アンド・エディター」に変更しました。肩書きを変えないと、相変わらずブランド側の商品仕入れに口を出したりするなど、コストアップにつながるムダな仕事を続けてしまいますからね。

 まずは名称を変えて、働く人の意識や働き方、役割を変えようとしたのです。「私たちの仕事はテナントであるお取引先の人に、いかに働きやすい環境を提供するかであり、売り場に入るブランドと協業して、いかに販促や宣伝の効果を上げていくか、である」と。お取引先と協力して来客数を増やす仕事も必要でしょう。けれど一方で、テナントの売り場で、百貨店側の社員がマーチャンダイジングという仕事を担う必要はありません。重要なのはお客様が魅力的に感じるブランドを売り場に入れることであり、そのブランドの品揃えに口出しする必要はないのです。この勘違いを改め、現実に即した“百貨店”の形に変えることが、私の改革だったとも言えるでしょう。

経営とは科学とアート

奥田:小倉さんは、あの当時にIT(情報技術)をかなり活用されていました。これにもとても驚きます。

 私は経営とは科学とアートだと思っています。科学を用いてどんどんと理屈で攻めていく部分と、人間のヒューマンタッチであるアートの部分がある。宅急便の場合のアートは現場のセールスドライバーでしょう。地域に密着してお客様との関係性を高めていった。科学であるITとアートとしてのセールスドライバーが非常にうまくかみ合っている。それは素晴らしいと感じています。

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