宅急便の生みの親にして、戦後有数の名経営者・小倉昌男氏。彼の自著『小倉昌男 経営学』は、今なお多くの経営者に読み継がれている。
ヤマトグループは小倉氏が去った後も、その哲学を大切に守り、歴代トップが経営に当たってきた。日経ビジネス編集部では今年7月、小倉氏の後の歴代経営陣が、カリスマの哲学をどのように咀嚼し、自身の経営に生かしてきたのかを1冊の書籍『ヤマト正伝 小倉昌男が遺したもの』にまとめた。
本連載では、外部の経営者たちが小倉昌男氏の生き様や経営哲学にどのような影響を受けてきたのかを解き明かす。『小倉昌男 経営学』の出版から約18年。小倉氏の思いは、どのように「外」の経営者たちに伝わり、そして日本の経済界を変えてきたのか――。
1997年に社長に就き、瀕死の状態だった大丸を再建。2007年には大丸と名古屋地盤の松坂屋を経営統合に導き、J.フロントリテイリングを設立。長く百貨店業界をリードしてきたのが奥田務相談役だ。小売業きっての理論家として有名な奥田氏が、最も参考になる経営書として挙げるのが『小倉昌男 経営学』である。奥田氏は、小倉イズムの何に影響をうけたのか。

1964年慶応義塾大学法学部を卒業後、大丸に入社。米ニューヨークのファッション工科大学への留学、大丸オーストラリアの代表取締役などを経て、1997年大丸社長に就任。2003年、大丸CEO(最高経営責任者)兼会長に退くも、2007年には名古屋の老舗百貨店、松坂屋との経営統合を主導。2社の統合によって誕生したJ.フロントリテイリングの社長兼CEOを務め、2010年から会長兼CEOに就任。2013年に相談役に退いた(撮影/竹井 俊晴、ほかも同じ)
奥田相談役は、小倉昌男さんにお会いしたことはあるのでしょうか。
奥田相談役(以下、奥田):残念ながら、その機会はありませんでした。1度でいいから小倉さんにお会いしたかったですね。
ただ、そんな思いがあったからでしょうか。ヤマトホールディングスとは、不思議なご縁がありました。というのも、私はJ.フロントリテイリングの会長兼CEO(最高経営責任者)を務めている時にパルコを買収しました。
実はこの時、パルコの社外取締役だったのが、ヤマトホールディングスの会長兼社長を務め、現在は特別顧問をなさっている有富慶二さんだったのです。有富さんには、「私は小倉さんをとても尊敬しています」と何度もお話ししました。
そして有富さんから小倉さんのエピソードをうかがって、改めて小倉さんの魅力を知りました。その中でも私が特に感銘を受けたのが小倉さんの人格の高潔さでした。特に経営者としての引き際が素晴らしい。
経営史をひも解けば、名声を博しながらも、トップの座から去ることができず、後継者も育成できず、会社を台無しにしてしまう事例はいくつもあります。私も経営者の端くれとして感じるのは、引き際には、その経営者の人生哲学があるということです。
人から言われるのではなく、個人の人生哲学によって退任を決めた小倉さんは、まさに高潔な人物だったのでしょう。日本にこれほど素晴らしい経営者がいたということを誇りに思います。そして、私も経営の第一線を退いてからは、相談されない限り、後任には一切口を出していません。
そして実は、僕の前任の下村正太郎・元大丸社長もやはり口を出しませんでした。小倉さんや下村さんは創業家出身で、サラリーマン社長とは異なります。自分が後を託した経営者たちに口を出さないのは本当に難しかったはずです。
今では、コーポレートガバナンスなど、いろいろありますが、それでも結局、経営トップの引き際を決めるのは、本人しかないと私は思っています。何に価値を持って生きてきたのか、人生哲学が決め手になる、と。
私の場合は、明智光秀の三女で細川忠興の正室だった細川ガラシャさんが最期に詠んだ「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という気持ちで退きました。

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