母は成績優秀だった手代木に、「手に職を付けてほしい。できれば医師になってほしい」と願った。生き物は好きだが血を見るのが嫌いな手代木は、自分の興味と母の願望との折衷案として薬学部への進学を決めた。

 だが、根気が必要な実験は、せっかちな手代木には耐えられなかった。上位だった成績は最下位クラスへと転落。大学院に進み研究者になるのが王道とされる薬学部から逃れるように、営業職を募集していた塩野義に入社した。

 ところが、配属先は結局は開発部門。そこで手代木は上司の目に留まる。27歳で米国に新しく作られたニューヨークオフィスの駐在員に抜擢された。

 当初は英語を全く話せず、新婚の妻を呼び寄せるまでの半年間は「毎日泣きたいほどつらかった」と手代木は言う。だが、3年半の駐在で論理的思考に英語力という武器が加わり、帰国後は30歳そこそこの若さで、米イーライ・リリーなど重要提携先の部長クラスから交渉窓口に指名されるほど評価されるようになった。

「なんで俺がこんなところに」

 しかし、ここで挫折を味わう。

 「平社員のくせに『俺がいなかったらできないだろう』と思うくらい、いい気になっていた」

 その態度が手代木を社内で孤立させた。「アイツはろくでもない」と噂され、“手代木降ろし”の怪文書が出回った。

 現場の不満を収めるためか、あるいは過酷な環境で自戒を促すためか。手代木は34歳で再び米国への赴任を命じられる。人事部長は「そんなことをしたら手代木は辞めてしまう」とちゅうちょしたが、社長だった塩野芳彦は「辞めてもいい。残ったら本物だ」と突っぱねた。飛ばされたのである。

 赴任先は米ノースカロライナ州にあった社員200人ほどの子会社。製品は薬ではなくカプセルだった。そこで手代木は、企業経営における「情」の重さを知ることになる。

 「何で俺がこんなところに」

 それまでの実績を評価され、他社から引き抜きの声もかかっていた手代木は本気で辞めることを考えた。

 それでも思いとどまったのは、開発部門で目をかけてくれた先輩らが、毎週のように励ましのファクスを送ってくれたからだ。「修業だと思って頑張れ。帰ったらまた一緒に開発をやろう」

 現地の従業員からは、社員の生活を守ることの大切さを身をもって学んだ。赴任から1年半ほどたったある日、現地の経理部長が青ざめた様子で手代木の元へ駆け込んできた。「今すぐこれを現金化してくれないか」

 経理部長が手にしていたのは、3000ドル(約33万円)の小切手。手代木が顧客にカプセルを売った際に受け取ったものだ。製造トラブルで納品が遅れ、その顧客が支払いを拒否していた。

 不渡りが出れば資金繰りに影響を与え、給与を払えなくなる。噂を耳にした従業員の中には辞める者もいた。

 小切手の金額は小さい。それでも、現地の従業員が製造現場など各自の持ち場で難局を乗り切ろうと懸命に働く姿が、手代木の胸を打った。

 会社は従業員一人ひとりの思いに支えられている。そして、その従業員には、家族がいる──。研究開発という狭い領域でうぬぼれていた自分を恥じた。

 3年間の駐在を終え日本に呼び戻された手代木は、芳彦の秘書として、経営を間近に見る機会を得る。そして芳彦が急逝すると、後任で現会長の元三の下、経営企画部長として構造改革に着手することになったのは、既に記した通りだ。

 非情にも映る構造改革の陰で、手代木は常に約5500人の従業員とその家族のことを考えていたという。挫折を経て「理」に「情」を併せ持った手代木には、社員とその家族の生活を支える「会社」という組織を次世代につないでいく覚悟が備わっていた。

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