それは後に、ビジネスにおける瀬戸の行動原則となる。「ただ考えるだけでは身につかない。疲れても考えるのをやめずに考え抜いて初めて、人と違う結果が出ることを教えられた」と瀬戸は振り返る。

高校のバスケットボール部では荒っぽいプレーばかりしていた
高校のバスケットボール部では荒っぽいプレーばかりしていた

 もう一つ、バスケを通じて学んだことがあった。組織を動かす難しさだ。

 瀬戸は東京大学経済学部に進学後はボクシング部に入部した。ところが畑は、キャプテンでもなかった瀬戸のリーダーシップを見抜いていたのだろう。武蔵中学のバスケ部に呼び戻した。

 コーチとして畑の教えを実践すると、区大会ですらほとんど勝てなかった弱小チームが、2年目の春には都大会に進出するまで強くなった。

 だが、瀬戸はここで挫折する。勢いに乗って挑んだ夏の大会で区大会を初戦敗退。翌日、中学3年の部員がキャプテンを除いて全員退部した。

 キャプテンだった川端徹(現・三菱商事・エネルギー資源戦略室経営企画ユニット部長)は、「都大会進出に舞い上がり、これまでにない厳しい練習を私が無理に強いたせいだった」と話す。だが、瀬戸は違う見方をする。自身の言うことをよく聞く川端を介してチームを運営した結果、他の部員の気持ちを見失い、「彼を孤立させてしまった」。

 チームを動かすのを人任せにしてはいけない──。挫折から学んだ教訓だ。

アマゾンに衝撃

 経営への関心は大学時代から芽生えていた。コーチの経験に加え、在学中、デジタル腕時計を大量に仕入れてはモロッコに飛んで売りさばき、商才にも自信があった。だが、明確に「経営者」を志したわけではなく、「大きな仕事がしたい」という漠然とした理由から、商社に就職した。

 ただ、自分で決められる裁量にはこだわりがあった。住商に入社したのは、他商社と比べて「バッターボックスに立てる可能性が高そう」と考えたからだ。配属先の鉄鋼部門では線材貿易を担当。1件100万円超と少額だが1年目から取引を任された。

 目立つ存在だった。新人時代の教育係だった桒嶋裕司は、瀬戸の初めての米国出張で驚かされた。米自動車業界の顧客への説明を任せてみると、市場動向から数量や価格など取引条件の背後にある理由まで、「自分で情報を集め、顧客を説得するストーリーを独自に理路整然と組み立てていた」(桒嶋)。

 プライドも高かった。入社8年目で米デトロイトに赴任する直前、瀬戸は右手を骨折した。瀬戸の実力を不安視する声を耳にして上司と口論になり、怒りを抑えきれずに電柱を殴った。

 駐在中の米ダートマス大学へのMBA留学も異例だ。通常、駐在中の商社マンは留学など認められない。だが、自ら提案した事業のアイデアを却下されて知識不足を痛感した瀬戸は、それをバネに上司を説き伏せた。

 この留学が、瀬戸の前に経営者としての道を開くことになる。

 留学したのは、米アマゾン・ドット・コムが創業した94年。大量の本を1つのサイトに取りそろえ、しかも安く売る事業モデルは、商社という流通業界に身を置く瀬戸に衝撃を与えた。

 帰国後は鉄鋼原料関連の新規事業を任され、米社との合弁会社の社長に就いたがアジア通貨危機で頓挫。eコマースチームの新設を提案し、念願のEC(電子商取引)事業を検討し始める。

 日本はネットブームに沸いており、商社にも米ベンチャーなどから共同事業の誘いが数多くあった。その中で瀬戸の心を捉えたのが、米資材流通大手グレンジャーからの提案だった。「企業向けアマゾン」を作れると直感した。

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