長門:平時ならば、彼じゃなきゃならないという理由がなくなってきちゃうんですね。だから非常に皮肉なんだけれども、個性の強さが疎まれてしまったりする。この本に出てくる指導者たちは、権力を一度ならず奪われてひどい目に遭った人が多い。その時期を耐えていくことが必要で、マッカーサーはトルーマン米大統領に挑んで大失敗し、ついに再浮上できぬまま時代に置いて行かれた。一方、チャーチル、ド・ゴール、吉田茂、もちろんニクソンは見事に復活した。ド・ゴールはニクソンとかなり通じるところがあったようで、ニクソンについて「我々は、ともに砂漠を渡った者たちだ」と言っていたそうです。

 大きな挫折も指導者の要件なのかもしれません。

長門:大きな挫折は、大きなことに挑んだ証でもありますよね。

 さて、ご質問にあった「経営者は国の指導者になれるのか」ですが、実はニクソンはこの本の前文(「偉大さについて」)で、こんなことを書いているんです。

 …アメリカには、ずっと前から、国家に必要なのは政府を手ぎわよく動かす経営術であり、大企業を有効適切に経営してきた実績ある人が望ましい、という考えがある。

「経営は散文、指導は詩」

 30年前も、いやその前から「経営者に国を“経営”させろ」という声が米国にはあったんですね。

長門:それに対してニクソンはどう考えていたか。

 だが、経営力と指導力は別物である。私は南カリフォルニア大学経営学部ウォレン・G・ベニス教授の「経営者にとっては、事を正しくやることが目標であり、指導者にとっては、正しい事をやることが目標だ」という言葉を思い出す。

 なるほどテクニックは必要だが、指導力はテクニック以上のものである。経営は散文だが指導は詩だ、とも言える。(中略)

 人間は、理屈によって納得するが、感情によって動く。指導者は、人々を納得させるとともに、動かさねばならない。経営者は今日と明日を考える。指導者は明日の一歩先を考えねばならない。経営者はプロセスを扱うが、指導者は歴史の進路を扱う。だから、経営する客体を失った経営者は無に等しいが、指導者は権力を失ってもなお人々を惹きつけるのである。

 なかなか手厳しい。ニクソン大統領がトランプ氏にもし会ったらどう思うんでしょう。

長門:ニクソンがここで述べている「経営者」は、オペレーター的というか、会社組織を効率よく動かす人、というくらいのイメージなのかもしれません。「経営者を雇ってやらせることは可能だが、進路を決め推進力を提供するのは、指導者だけの責任である」という言い方もしています。

 ニクソンが取り上げている「指導者」は、大企業のサラリーマン経営者のイメージではありませんが、起業家や、イノベーターとは通じるところがありますね。

長門:歴史観とか、使命感、なにごとかを強く信じ、執着するところとか。それは合理性や論理性と必ずしも排他じゃないんですよね。