こんな感じです。

 日本の銀行は独自の問題を抱えていた。「協力したいのは山々なんですがね」と、ある東京の銀行マンがファースト・ボストンのディブ・バッテンに言った。「うちはもうほかの二つのグループと仕事をしていまして、英語をしゃべるスタッフが足りないんですよ」

(下巻、281ページ「強欲のゲーム」から引用)

長門:やれやれ(笑)。ずいぶんですね。でも、そんなものだったのかもしれません。我々も、非日系企業への融資でずいぶん頑張っていたつもりでしたけれど、先方にすれば「米銀みたくうるさくないし、そんなに言うなら借りてやるか」というのが、現実だったのかも。

 とはいえ、興銀と新日鉄、日立、みたいな関係性もあるでしょうから、いきなり外銀が内懐にと言うのも難しいのではないですか。

長門:確かに、人脈とか、歴史的経緯もありますよね。J.P.モルガンやバンカメと、IBMやGEの間にある親密感は、それは日本の銀行とは違うでしょう。我々はエッセンシャルに求められていたわけではなかった。ニッチを攻めて成果を挙げていたのを勘違いして、「主役に出たい、出られる」と思ったのかも知れません。

 国際金融の世界は、やはり英語と米ドル、もっと言えば米国の金融機関の世界です。1997年アジア通貨危機の時も実感しました。当時はバンコク支店長としてタイにいたのですが、タイ政府が経済再建アドバイザーとして最終的に雇ったのは、我々ではなく、米国の銀行でした。最大の貸し手は邦銀だったにもかかわらず、です。ファイナンスはやはり、英語、ドル、米銀と米国証券なのか、と思ったものです。

 この本を現地で読んだ後、1991年に湾岸戦争が始まりました。戦費のかなりの部分を日本が負担しましたけれど、評価されるどころか非難された。このとき、この本を改めて思い出しました。

米が主食では戦えない?

 この本を読むと、巨額の資金が動く投資銀行の世界が、意外に小さい村というか、コアの部分はかなり内輪でやりとりしている世界なんじゃないかと思わされるのですが、日本の金融機関が中核に食い込めないのは、それも関係しているでしょうか。

長門:クラブ的、という意味で言えばたしかにそれはあるんです。日本にだっておなじような意識はありますからね。米国でも、「どこそこのゴルフクラブに入っている」という内輪感覚が強くある。そうはいいながら、米国はクラブの中なりに新陳代謝があって、人が動いてもいるんですけどね。

 ある案件では敵に回っても、次は組んだりもする。

長門:カネのためには、彼らはものすごいディールを打つ。でも、一方で「こいつはできる」というリスペクトはある。だから、テニスの試合の後みたいにさっぱりと握手出来たりもするんでしょうね。

 長門さんはどうですか。

長門:うーん、正直、日本人の中ではやれる方かもしれません、気が強いから。でも、正直に言えば、根っこのところで「米が主食ではダメ」じゃないかと思いますね。最後のところでは自分で生き残るために拳銃を手放さず、「持たないとやられる」と思う国民と、国に「なんとかして」とお願いに行く国民との違いはあります。ですから、頭を切り換えて勝負しないと食われてしまうし、現に食われている。買収して競争に勝ったはずが、買われた側に毟(むし)り取られたり。やっと最近、成功例が出てきましたが。だんだん日本も、日本人も変わってくるのでしょう。