戦後間もなく発足し、かつては世界に驚きを与え続けたソニーが、今も苦しみ続けている。業績は回復してきたものの、国内外で圧倒的なブランド力を築いた面影は、もはやない。日本人に希望をもたらしたソニーは、どこで道を誤ったのか。長くソニーの歩みを見た経営幹部が、今だからこそ話せる赤裸々なエピソードとともに、ソニーの絶頂と凋落を振り返る。あの時、ソニーはどうすべきだったのか。
これまでにソニーOBの丸山茂雄氏(上、中、下)、伊庭保氏(上、下)、大曽根幸三氏(上、中、下)に話を聞いてきた。
連載4人目は、子犬型ロボットのAIBOや二足歩行型ロボットのQRIOなどの開発を手掛けた土井利忠氏。AIBOやQRIOの開発が始まった経緯からロボット事業撤退の舞台裏、ソニーが知らず知らずのうちに陥っていた病理の分析などを、5日連続で語る。今回はその最終回(1回目、2回目、3回目、4回目)。
聞き手は日経ビジネスの宗像誠之。
土井利忠(どい・としただ)氏。
1942年、兵庫県生まれ。64年東京工業大学電子工学科を卒業、ソニー入社。工学博士(東北大学)、名誉博士(エジンバラ大学)。デジタルオーディオ研究開発プロジェクトマネジャーとして、蘭フィリップスと共同でのCDを開発するプロジェクトや、ワークステーション「NEWS」の開発などを担当。AIBOやQRIOといったロボット開発などの責任者も務めた。87年にスーパーマイクロ事業本部本部長。1988年にソニーコンピュータサイエンス研究所長。2000年にソニーの業務執行役員上席常務に就任。2004年にソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所社長。2006年にソニーグループを離れる。現在は、中小中堅企業などへ経営を指南する「天外塾」を主催しながら、医療改革、教育改革にも取り組む。「天外伺朗」というペンネームでの著書多数(撮影:北山 宏一)
経営を学び、自ら経営塾を開くようになってから、改めてソニーを分析すると、新たな観点からソニー凋落の原点が見えたりしますか。
土井:それはあるね。ソニーに自分がいた頃は全く気が付かなかったけど、経営を学び、経営塾で多くの経営者と接した経験を通して、気が付いたことがある。
ソニーの経営を急激に変えた出井(伸之、ソニーの会長兼CEOなど経営トップを歴任)さんの劣等感を生んだものが何だったのか。それを突き詰めていくと、創業期のソニーが陥っていた病理が浮かびあがってくるんだ。
僕がソニーにいた頃は、井深(大、ソニー創業者)さんや盛田(昭夫、ソニー創業者)さんの全盛期を理想として、みんながそのやり方を信奉しながら語るようになっていた。創業期のソニーは、ものすごい勢いで成長したけど、それはモノ作りに貢献したエンジニアが自由闊達な環境で燃えていたから。だが、そこにこそ病理も宿っていたと、僕は思うんだよね。
創業期に根付いたエンジニア至上主義
創業期のソニーが抱えていた病理、とは何でしょう。
土井:研究開発至上主義になりがちだった、ということだよ。営業やスタッフ部門などの他の職種に比べると、エンジニアが過度に大事にされすぎていたのではないかな。
全エンジニアではないが、ある程度の才能を持ったエンジニアは、優遇されすぎるほどに優遇された時代だった。ソニーを離れて冷静に、会社組織として公平に見ると、エンジニアの優遇度合には歪みがあったかもしれない。いろいろ開発させてもらった私自身も、最も優遇された開発エンジニアの一人だったと思うから、ソニー時代の自分はそんなことに気が付かなかったけど…。
分かりやすい例を出すと、大曽根(幸三、ソニー副社長などを歴任。初代ウォークマンの開発を主導した技術者)さんなどは、営業や管理部門は一番下の身分だ、という考え方だったよね。大曽根さんはモノ作りにこだわりがあったから、メーカーで最も重要なのはエンジニアだと考えていた。営業を下に見ているようだったし、管理部門の人材はさらに下に見ているように思えた。数字を管理しているだけだ、という理由でね。
今思うと、そういう雰囲気が全体的に、ソニーの社内にあったんだ。
例えば営業の担当者から「量販店の社長と会ってくれ」と頼まれても、大曽根さんは会わなかったこともあった。それは大曽根さんが「頭を下げて売らなきゃいけないようなやましいものを、俺は作っていない」と思っていたからだ。営業しなくても売れるものを作っている、とね。
誰にも頭を下げないという高飛車な考えではなく、メリハリを付けていたわけだ。大曽根さんは部品メーカーには足しげく通って頭を下げて接していたからね。けれどその半面、営業や管理部門には冷たかった。ソニーの社内全体でもそんな雰囲気が実際にあったんだ。
井深さんはそういったことはなくて、技術者も営業もみんな平等に接していた。技術系人材の方が、技術談義が好きな井深さんと接する機会が多かったのは事実だけれど、技術者が上という意識を感じさせたことはなかったな。井深さんは、それはそれは仁徳のある人だったからね。
過度にエンジニアが優遇され過ぎたのは、その後の時代だね。この傾向は、盛田さんが営業を担当し、技術者ではない大賀(典雄、元ソニー社長)さんがトップになって少しは薄らいだ時期はあったけど、しぶとく残っていたと思う。
「出井さんは劣等感を植え付けられた」
出井さんは、営業をやっていましたよね…。
土井:そういう環境の中で出井さんは仕事をしてきた。エンジニアの言うことが何よりも優先されて、何でも要望が通っていた時代だよ。
出井さんは欧州での営業経験が長いし、そういう環境のソニーで虐げられてきて、忸怩たる思いを持っていたのかもしれない。エンジニアから「技術が分からない」と陰口を叩かれて、劣等感を募らせていったのかもしれない。
それが社長に選ばれ、経営トップになった途端、今までの劣等感が大きく作用してしまったのではないかな。優れた経営者として賞をもらったりしてメディアでまつり上げられて、劣等感が優越感に変わっていった。心理学的に見ると劣等感と優越感は同じだからね。
社長になった後の会議でよく見るようになった、「何をやってるんだお前ら、新しい時代のソニーはこうだ」という出井さんの発言や態度には、そういう思いが透けていたのではないか。かつてのソニーには、技術系人材が、営業を小ばかにしていた雰囲気があった。これが出井さんに劣等感を植えつけて、そもそもの迷走の原点になった可能性がある。だから、技術系人材が営業を下に見る雰囲気は、ソニー創業期の病理だったと思うんだ。
ソニーにいた頃は、そんなことは考えもしなかったよ。だけどリタイアして、自分の技術者としてのバックグラウンドを生かしつつ、創業期のソニーの経営を分析して「フロー経営」を伝える経営塾を開き始めてから10年くらい経過した頃に気が付いたんだ。
黄金期でもあり、勢いよく伸びた創業期のソニーにも、実は病理があったんだ、とね。いくらモノ作りが重要なメーカーとはいえ、エンジニアの過度な重視は組織的には少しおかしいし、偏っていたってことだ。
「盛田さんが僕を睨んだわけ」
創業者世代の方々と仕事をしてきた中で、特に印象的な思い出はありますか。
土井:井深さん、盛田さん、大賀さんと、創業者世代の経営トップ3人に接してきたけど、その後の経営者と違うのは、みんな、きちんと人の話を聞ける人たちだったということかな。それぞれ、話の聞き方には大きな違いがあったけどね。
盛田さんは意識して人の話を聞くスタイルの「聞き上手」だったな。人の話をできるだけ遮らないように、ということを意識しながら、いつも話をして、情報を引き出していたようだ。
昔、ソフトバンクの孫(正義、ソフトバンク創業者)さんがビジネスランドという米国のパソコン販売会社を日本で展開しようとした時、盛田さんに会いに来たんだよね。その時にビジネスランドのトップとソフトバンクの孫さん、盛田さん、僕の4人で打ち合わせをしたことがあった。ビジネスランドのトップの話が長かったので僕が遮って話を始めた一幕があったんだ。
そしたら盛田さんがものすごく怖い顔で僕を睨んだ。その時に気が付いたね。盛田さんは努力して話を聞いていたんだな、って。会議中は何も言わないけど、怖い顔して僕を睨んで、「人の話を遮ってはダメだ」と叱ったんだと思う。
まだソフトバンクがソフトウエア製品の流通会社だったころだから、1980年代の後半の話だな。ソニーは当時、ワークステーション「NEWS」を開発して販売していたから、ソフトの流通をやっていたソフトバンクとも関係があったんだ。
「盛田さんが倒れた瞬間、隣にいた」
土井:盛田さんとは毎週火曜の朝にテニスをしていた仲だった。だから、盛田さんがテニス中に倒れたときも、僕は一緒だったんだ。その時は突然、盛田さんが「サーブのトスを上げらない」ってぼやき始めて。手からテニスボールが落ちるんだけど、もう自分で拾えない。
様子がおかしいから「盛田さん、ちょっと休んでください」となった。僕の隣に盛田さんが座っていたんだけれど、どんどん体が傾いてくる。これはおかしい、ということで自宅に送るために、僕が盛田さんの体を支えてクルマまでお連れしたんだ。あの時はまさかそんな大事になるとは思わなったよ。
盛田さんと毎週火曜にテニスをするようになったのは、火曜の朝に常務会があったから。どうせ朝早く来るから、「常務会の前にテニスやろうぜ」ということになったんだ。その前から盛田さんとはたまにテニスをする仲だったし、仕事での接点もいくつかあったよ。
大賀さんの口癖「Just do it!」
大賀さんも聞き上手だったのでしょうか。
土井:大賀さんは聞き上手というか、また大きくスタイルが違っていて。相談とか、承認をもらおうとお願いに行くと、まず大賀さんは自分の興味あることをしゃべるんだな。自慢話も含めてね。
全体の時間で言うと、出だしから8割くらいは大賀さんが一方的に話をする。それに耐えて残りの2割の時間を使って説明して、お願いをする感じ(笑)。大賀さんの話を聞けば、ちゃんとこっちの話も聞いてくれる。
そして説明に納得をして、プロジェクトの推進などでOKを出す際は、「Just do it!」っていうのが大賀さんの口癖だったな。「お前がそう思うんだったら、とにかくやってみろ」ということ。これも「フロー経営」だね。信頼がベースの経営を大賀さんもしていた。
「大賀さんはエンジニアと真剣に議論した」
土井:大賀さんにはいろいろと承認のための説明に行ったけれど、よく覚えているのは、僕の研究所で「Suica」などの元になる非接触ICカードの研究開発をやっていた時のこと。米国の映画会社を買収した後で、財務的に大変な時代だったのもあり、非接触ICカードの開発プロジェクトの予算を削減すべきだ、という話が社内で出ていたんだ。
このプロジェクトの研究開発費が重いから減らそう、という案だった。技術屋じゃない人が「事業仕分け」みたいなことやって、コスト削減対象の事業に入っちゃったんだな。
それを回避するために僕は、大賀さんのところに直接乗り込んで、「いずれ電子マネーの時代が来る。だから、この研究開発はコストを減らさず続けるべきだ」と主張したんだ。その時も大賀さんは、僕の言うことを最後には理解してくれて「Just do it!」と言ってくれた。
大賀さんとはCDの開発を一緒にやった戦友でもあるから。CDの時は意見がぶつかって丁々発止の議論をよくやっていたよ。CDの音質を左右するビット数を決める段階でも14ビットか16ビットかで意見が割れてね。
14ビットでも十分に音質は高いっていうことで、ソニー側も、共同開発していた蘭フィリップス側も14ビットでやろうという意見だった。だけど、僕が両社の中で唯一、16ビットを主張していた。16ビットだと録音時間が短くなってしまうが、音質はいい。だから欧米の音楽関係者からは僕の主張の方が支持されていたんだ。
ついにフィリップス側が大賀さんに、「14ビットにしないと開発スケジュールが遅れてしまう。土井が一人で16ビットを主張してプロジェクトの進行を妨害している」と苦情を言ってきた。そして大賀さんから僕のところに、「何で16ビットにこだわるんだ。14ビットでもいいじゃないか」という話が来た。でも僕は譲らなかった。
構図としては似ているけれど、CDを開発していた時のこの議論と、AIBOやQRIOの開発時の議論が違うのは、たとえ自分の意見と異なっても、最終的には現場のエンジニアの言うことを尊重してくれる経営トップがいたということ。
大賀さんは、自分と違う意見であっても、筋が通っていれば尊重してくれた。ケンカじみた議論になることもあったけど、ゆるぎない信頼感がある中でのやり取りだった。だから、経営トップとしての権限を行使して、上から強制的にプロジェクトをやめさせるなんてことはなかった。器が大きい人間だったんだな。
井深さんは、「反対して悪かったな」としんみり語った
土井さんはエンジニアなので、創業者世代の3人の中では、井深さんとの接点が一番多いように感じますが。
土井:井深さんは特に聞き上手だったね。もう天然に近い聞き上手。技術に関しては、本当に興味がいろいろあったから、とにかく人に聞きまくる。「これはどうなってんだ」とか聞いて、それに答えると「ほうほう、それで」と、どんどん話を展開させていく。そういう天然の話術で、現場を回りながら社内の情報をうまく集めていたんだと思う。
井深さんとの思い出はいろいろありすぎるんだけど、仕事での思い出と言えば、やはりCDの規格を作っていた頃かな。CD開発の時、実は井深さんは反対していたんだ。井深さんはアナログ技術が好きな人で、デジタル技術が嫌いだったんだ。
とはいえ、反対はするけど「やめろ」とは言わないのが井深さん。CDの開発が成功した時には「反対して悪かったな」と井深さんからしんみりと言われたことがあったよ。 自分に非があったと分かれば、きちんとそれを認める器の大きさが井深さんにはあった。自分のメンツを重視してずっと反対し続けて、製品化した後でも有望な事業をつぶした経営トップとは、やはり違うよ。
井深さんの思い出で、最も強烈だったことがある。日付と時間まで覚えているよ。それは忘れもしない、米国時間の1997年12月18日のことだった。
「井深さんはAIBOのデモを楽しみにしていた」
土井:あの時、私は米国出張の最終日で、米サンフランシスコ国際空港にいたんだ。
空港内を歩いていると一瞬、井深さんの顔がはっきりと浮かんだんだよ。笑っているように思えた。時計を見たら、午前11時半だったのを覚えている。
珍しいことだから、何でこんなことが起こったのかなとアレコレ思案していて、あることを思いだして、「あっ」って思った。その米国出張の1年くらい前に、私はAIBOの開発をしていたんだけど、病気だった井深さんがAIBOの試作機のデモを見学に来られたことがあったんだ。
だけど、その日は体調が良くなくて、デモを見ないで帰ってしまったんだ。そんな病身の状態なのに、わざわざデモを見に来ようと思ってくれたんだから、井深さんはものすごくAIBOに期待していてくれたんだと思う。
今思えば、その後、私が井深さんのところへAIBOの試作機を持って行って、デモを見せることだってできたはず。なのに、忙しさにかまけて、その頃の私はそんなことを思いつかなかった。
サンフランシスコ空港で飛行機に搭乗する頃には「これは虫の知らせってやつだな。井深さんがAIBOのデモを見たがっているのかもしれない。日本に戻ったらすぐに井深さんに電話をして、デモを見せに行く日取りを決めてしまおう」と考えていたんだよ。
だけどその後、成田空港に到着した私を待っていたのは予想もしていなかった出来事だった。井深さんが亡くなったという知らせだったんだ。
「伝言があります」と言われて、空港に迎えに来てくれたハイヤーの運転手から封筒を渡されてね。開くと、井深さんが亡くなられたという通知が入っていたんだ。12月19日の午前3時38分に逝去された、と書かれていた。
亡くなった時間を見て愕然としたよ。
日本と米西海岸の時差を換算すると、サンフランシスコ空港で井深さんの顔が思い浮かんだのは、亡くなる8分前だったってことだ。
「あんなにAIBOのデモを楽しみにしてくれていたのに、ついにお見せすることができなくて申し訳ございません」という後悔と、「最期にわざわざ私にまで挨拶をしにきてくれて、ありがとうございます」という感謝の思いが同時に沸いてきてね。
成田空港からの道すがらはずっと泣きっぱなし。私がソニーに入社して以来、井深さんと交わした数々の会話や、そのシーンが次々と頭に浮かんできてね。
これが井深さんとの、最後の思い出だな。
(終)
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