戦後間もなく発足し、かつては世界に驚きを与え続けたソニーが、今も苦しみ続けている。業績は回復してきたものの、国内外で圧倒的なブランド力を築いた面影は、もはやない。日本人に希望をもたらしたソニーは、どこで道を誤ったのか。長くソニーの歩みを見た経営幹部が、今だからこそ話せる赤裸々なエピソードとともに、ソニーの絶頂と凋落を振り返る。あの時、ソニーはどうすべきだったのか。

 連載2回目は、出井体制が実質的にスタートした1995年に、初代CFO(最高財務責任者)へ就任した伊庭保氏。連載1回目に登場した丸山茂雄氏が師と仰ぐ人物だ。当時のソニーの売上高の約半分に迫る、2兆円近くの有利子負債を抱えていた時期にCFOの職にあった同氏が語る。今回はその後編(前編は「だから私はソニーへ提言書を送った」)。

 聞き手は日経ビジネスの宗像誠之。
伊庭 保(いば・たもつ)氏。1935年、東京生まれ。59年東京大学法学部を卒業後、ソニーに入社。78年にスイス現地法人のソニー・オーバーシーズ総支配人。83年にソニー・ファイナンスインターナショナル社長兼ソニー商事社長へ就任。86年資材管理本部長。87年にソニー取締役。88年にソニー・プルコ生命保険(現ソニー生命)社長。92年にソニー専務、94年にソニー副社長。95年にソニーCFO就任。99年にソニーCFOを退く。99年からソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)会長。2000年にソニー副会長、2001年にソニー顧問就任。2004年にソニーフィナンシャルホールディングス会長兼社長。2006年にソニー顧問を退任。(撮影:北山 宏一)
伊庭 保(いば・たもつ)氏。1935年、東京生まれ。59年東京大学法学部を卒業後、ソニーに入社。78年にスイス現地法人のソニー・オーバーシーズ総支配人。83年にソニー・ファイナンスインターナショナル社長兼ソニー商事社長へ就任。86年資材管理本部長。87年にソニー取締役。88年にソニー・プルコ生命保険(現ソニー生命)社長。92年にソニー専務、94年にソニー副社長。95年にソニーCFO就任。99年にソニーCFOを退く。99年からソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)会長。2000年にソニー副会長、2001年にソニー顧問就任。2004年にソニーフィナンシャルホールディングス会長兼社長。2006年にソニー顧問を退任。(撮影:北山 宏一)

伊庭さんは、ソニーにおける経営の迷走は、出井(伸之、ソニー社長や会長兼CEOなどを歴任)さんの時代から始まったとお考えですか。

伊庭氏(以下、伊庭):出井さんは経営トップとして、技術の重要性は分かっていたと思う。けれどソニーにとって必要な技術は何であるかが理解できなかったのではないだろうか。

 以前、米アップル創業者の一人である、スティーブ・ウォズニアックのインタビュー記事を読んだことがある。そこで語られていた内容と同じような感想を、私もソニーに対していつも感じていたんだよ。インタビューでウォズニアックは、「経営陣には技術を理解する人材が必要で、そう考えると今のアップルの経営は片肺飛行のようだ」という主旨を語っていた。その上で、「アップルは元々、ソニーを目標にして追いかけてきたが、そのソニーが凋落した原因も消費者目線がなくなったからでないか」とも分析していた。

 おそらく、彼のそのような発言は過去、ソニーの経営トップ時代に、出井さんが米国の展示会で、同じソニー製にも関わらず全く互換性のない2種類のウォークマンを、誇らしげに発表したイベントが念頭にあるのではないかと思う。あれはまさしく消費者目線を欠いた製品開発だったし、盛田(昭夫、ソニー創業者)さんや大賀(典雄、元ソニー社長)さんの社長時代だったら考えられない出来事だった。

 もう一つの典型的な例は、ロボット事業からの撤退だろう。当時、ロボット事業は赤字だったけれど、長期的には必要な技術だった。技術開発までやめることはなかったのではないか。時間をかけて育てるべき将来の芽を、経営トップが主導して摘んだことになる。

 かつて、ソニーはイノベーションを起こし続ける会社だった。そして、その背景には技術を熟知した経営者の厳しい目による、技術開発テーマの選択と集中が常にあった。全て正しい判断だったとは言えないかもしれないけれど、少なくとも創業者世代のソニーは、ヒット商品をつないで成長を続けてきた。そう考えると、正しい判断がなされてきた蓋然性は高かったと言えるんじゃないか。

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