「ソニーに、頭の固い人が増えていった」

「プレイステーション」以降、「何か新しいものを世に出した」と言えるような代表的な製品を、ソニーは生み出していません。プレステ誕生直前のソニーグループはどのような雰囲気だったのでしょうか。

丸山:ハードウエア中心のエレクトロニクス事業が本流だったソニーグループの中で、当時、コンテンツなどソフト分野のこと分かっているやつはいなかったからね。

SCE副社長や会長、SME社長などを歴任した丸山茂雄氏(撮影:原川 満)

丸山:「コンテンツやソフト分野が分かる、分からない」という言い方をよくするよね。これはね、完成した映画や音楽、文学の良し悪し、面白いか面白くないかが感覚的に分かるということじゃないんだ。ポイントは、どうやったらいい作品、面白い作品を完成させられるか、というプロセスをマネジメントする方法が分かっているかどうかなんだよ。

 ソニーグループの中で、それを十分に理解している人材がいるのは、日本だと音楽子会社のソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)だけだよね。だからそこで当時、副社長をやっていた俺が、「久夛良木(健、SCE社長やソニー副社長などを歴任)と一緒にプレステをやれ」と言われたんだよ、大賀(典雄、元ソニー社長)さんからね。大賀さんの命令だから、俺も言うこと聞いてちゃんとやったよ。

 ソニー本体はハードウエア出身の人ばかり。その頃から学歴が高くて、偏差値も高い人が多くなっていて、創業時とは違ってさ、既に頭が固い人が増えていたんだよね。でも、いいソフトや作品を作る人をマネジメントできる人材って、必ずしも学歴や偏差値の高さは関係なくて、むしろ必要としないのよ。

 だからプレステを立ち上げるプロジェクトは、ソニーの中でつぶされそうになっていた。それは、プレステを作った張本人の久夛良木自身も気が付いていて、久夛良木のプレステ開発プロジェクトの後ろ盾となっていた大賀さんも気が付いていた。

 そういうわけで、コンテンツやソフトの重要性が分かっていて、ソニー本体ではない「SMEの丸山のところに居候をしていろ」と大賀さんが久夛良木に手を差し伸べたわけ。それでSCEが無事に設立されて、プレステが今もあるんだよ。

 実際、SMEの中の俺のセクションは当時儲かっていたから、その利益も使って「久夛良木が考えたゲーム機のソフトを作ろう」ということになったわけだ。ゲーム機なんてソフトがなければただの箱だから、魅力的なソフトがなければ売れない。当時はけっこうな金額を投資としてぶちこんだよ。

任天堂と互換性を持たせる計画だったプレステ

丸山:最初はね、ファミコン(ファミリーコンピュータ、日本では1983年発売)で一世を風靡していた任天堂のゲーム機と互換性のあるソフトを作ろうとしていたんだ。けれど任天堂と話がまとまらず、開発を進めていたのに、それまでやっていたことがムダになった。カセット型のソフトは任天堂、CD-ROM型のソフトはソニーグループで、という話にしていたんだけど、任天堂との交渉が決裂して、そんな風に住み分ける計画がなくなったわけだ。

 そうこうするうちに、「任天堂との互換性なんてなくていいから、ソニーグループとしてゲーム機(のちのプレステ)を作ろうぜ」という話になった。俺はてっきり、そのゲーム機はソニー本体が作るんだと思っていた。

 そしたら、俺がいたSMEとソニーの合弁で、「それぞれ50%ずつの出資でやれ」ということになっちゃった。びっくりしちゃってさ。ソフトのことは分かるけど、ハードのことまで分からないし、俺は「とてもじゃないけどそんな責任を負えないよ」と思っていたから。「嫌だ」とか「やらない」とか、散々文句を言っていたんだ。

 そうしたら大賀さんに加えて、当時ソニーの役員だった伊庭(保、ソニー生命の社長やソニーの初代CFOなどを歴任)さんまで出てきちゃって、その2人から説得されちゃった。