戦後間もなく発足し、かつては世界に驚きを与え続けたソニーが、今も苦しみ続けている。業績は回復してきたものの、国内外で圧倒的なブランド力を築いた面影は、もはやない。日本人に希望をもたらしたソニーは、どこで道を誤ったのか。長くソニーの歩みを見た経営幹部が、今だからこそ話せる赤裸々なエピソードとともに、ソニーの絶頂と凋落を振り返る。あの時、ソニーはどうすべきだったのか。
連載1回目は、現在のソニー社長兼CEO(最高経営責任者)の平井一夫氏が経営者として頭角を現すきっかけを作った人物の証言からスタート。ソニー・ミュージックエンタテインメント社長やソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)会長などを歴任した丸山茂雄氏が、本日から3日連続で語る。今回はその前編。
聞き手は日経ビジネスの宗像誠之。
丸山 茂雄(まるやま・しげお)氏。
1941年8月、東京都生まれ。66年早稲田大学商学部卒業後、読売広告社に入社。68年CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)入社。88年にCBS・ソニーグループ取締役。92年にCBS・ソニーがソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)に社名変更し、SME副社長に。93年にソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)を、SMEとソニーの合弁で設立し、副社長に就任。97年にSME副会長。98年2月にSME社長に就任。1999年にSCE副会長。2000年12月にSME取締役へ退く。2001年にSCE会長。2002年にSMEを退職し、SCE取締役へ退く。2007年にSCE取締役を退任(撮影:陶山 勉)
ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の社名がこの4月から、ソニー・インタラクティブエンタテインメント(SIE)に変わりました。SCEの立ち上げに携わり、副社長や会長などを歴任した丸山さんにとって、20年以上の歴史を持つSCEの社名が消えたことに寂しさを感じますか。
丸山氏(以下、丸山):別に何も感慨はないよ。社名を変えたけりゃ変えろ、と思うだけだよ。「プレステ(プレイステーション、日本では1994年発売)」という製品名にはこだわりがあって思い入れはあるけれど、SCEという社名については、そうでもないから。確か最終的に、ソニーの偉い人の誰かが「SCEがいい」って言って決まったんだよな。
SCEが設立される時、「ゲームというおもちゃを作る会社なのに、社名に『コンピュータ』と入るのは、いかがなものか」という意見があったんだよね。プレステの「プレイ」という単語も英語では幼児用語の位置付けで、そんな上品じゃない言葉なんだって。
だから「製品にプレイなんて付けるのはやめろ」とも言われたんだけれど、押し切った。SCEもプレステもそんな感じで、頭の固いソニー本体の大勢が反対する中で発足したんだ。「名前にプレイと入ったおもちゃなのに、コンピュータという言葉を社名に入れるなんて、大げさすぎる」などと言われて、後ろ指をさされていたんだよね。
社名とか製品名とか、命名した当事者は思い入れあるだろうけど、次の世代にとってはどうでもいいんじゃないかな。だから今、経営している人たちが変えたければ、変えればいい。
それで、4月からSCEは、ソニー・インタラクティブエンタテインメントになったんだっけ?コンピュータ単体でゲームを楽しめるだけでなく、インタラクティブなサービスを提供し始めているから、社名もその通りにして分かりやすくしたい、ということでしょ。
「ソニーに、頭の固い人が増えていった」
「プレイステーション」以降、「何か新しいものを世に出した」と言えるような代表的な製品を、ソニーは生み出していません。プレステ誕生直前のソニーグループはどのような雰囲気だったのでしょうか。
丸山:ハードウエア中心のエレクトロニクス事業が本流だったソニーグループの中で、当時、コンテンツなどソフト分野のこと分かっているやつはいなかったからね。
SCE副社長や会長、SME社長などを歴任した丸山茂雄氏(撮影:原川 満)
丸山:「コンテンツやソフト分野が分かる、分からない」という言い方をよくするよね。これはね、完成した映画や音楽、文学の良し悪し、面白いか面白くないかが感覚的に分かるということじゃないんだ。ポイントは、どうやったらいい作品、面白い作品を完成させられるか、というプロセスをマネジメントする方法が分かっているかどうかなんだよ。
ソニーグループの中で、それを十分に理解している人材がいるのは、日本だと音楽子会社のソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)だけだよね。だからそこで当時、副社長をやっていた俺が、「久夛良木(健、SCE社長やソニー副社長などを歴任)と一緒にプレステをやれ」と言われたんだよ、大賀(典雄、元ソニー社長)さんからね。大賀さんの命令だから、俺も言うこと聞いてちゃんとやったよ。
ソニー本体はハードウエア出身の人ばかり。その頃から学歴が高くて、偏差値も高い人が多くなっていて、創業時とは違ってさ、既に頭が固い人が増えていたんだよね。でも、いいソフトや作品を作る人をマネジメントできる人材って、必ずしも学歴や偏差値の高さは関係なくて、むしろ必要としないのよ。
だからプレステを立ち上げるプロジェクトは、ソニーの中でつぶされそうになっていた。それは、プレステを作った張本人の久夛良木自身も気が付いていて、久夛良木のプレステ開発プロジェクトの後ろ盾となっていた大賀さんも気が付いていた。
そういうわけで、コンテンツやソフトの重要性が分かっていて、ソニー本体ではない「SMEの丸山のところに居候をしていろ」と大賀さんが久夛良木に手を差し伸べたわけ。それでSCEが無事に設立されて、プレステが今もあるんだよ。
実際、SMEの中の俺のセクションは当時儲かっていたから、その利益も使って「久夛良木が考えたゲーム機のソフトを作ろう」ということになったわけだ。ゲーム機なんてソフトがなければただの箱だから、魅力的なソフトがなければ売れない。当時はけっこうな金額を投資としてぶちこんだよ。
任天堂と互換性を持たせる計画だったプレステ
丸山:最初はね、ファミコン(ファミリーコンピュータ、日本では1983年発売)で一世を風靡していた任天堂のゲーム機と互換性のあるソフトを作ろうとしていたんだ。けれど任天堂と話がまとまらず、開発を進めていたのに、それまでやっていたことがムダになった。カセット型のソフトは任天堂、CD-ROM型のソフトはソニーグループで、という話にしていたんだけど、任天堂との交渉が決裂して、そんな風に住み分ける計画がなくなったわけだ。
そうこうするうちに、「任天堂との互換性なんてなくていいから、ソニーグループとしてゲーム機(のちのプレステ)を作ろうぜ」という話になった。俺はてっきり、そのゲーム機はソニー本体が作るんだと思っていた。
そしたら、俺がいたSMEとソニーの合弁で、「それぞれ50%ずつの出資でやれ」ということになっちゃった。びっくりしちゃってさ。ソフトのことは分かるけど、ハードのことまで分からないし、俺は「とてもじゃないけどそんな責任を負えないよ」と思っていたから。「嫌だ」とか「やらない」とか、散々文句を言っていたんだ。
そうしたら大賀さんに加えて、当時ソニーの役員だった伊庭(保、ソニー生命の社長やソニーの初代CFOなどを歴任)さんまで出てきちゃって、その2人から説得されちゃった。
「京都の“おもちゃ屋”に負けたら格好悪い」
その段階で、ソニー本体の幹部はプレステ開発に乗り気になっていたのでしょうか。
丸山:いや、その頃も、ソニー本体でプレステ開発に大賛成だったのは大賀さんと伊庭さんの周辺の人たちくらいで、ほんの一握り。ほかの人たちは「どうせ任天堂に負けるからやめとけ」みたいな感じだよ。
「世界のソニーが“京都のおもちゃ屋”と競争して、もし負けちゃったら格好悪いから、やめた方がいいんじゃないか」とかね。そういうことを平気で言う人がいたんだよ。ソニー本体は全般的にそんな雰囲気だったかな。
それでも当時、SMEは上場した直後でカネはあったんだよね。それも上場で調達したカネをそのまま銀行に預けていた。内部留保などで2000億円くらいはあったと思う。それをゲームの合弁会社に出資することになったわけさ。
ソニー本体が単独出資するなら俺は関係ないけど、SMEのカネも使うなら、失敗すると俺の責任にもなるでしょ。別に俺が自らやりたいという事業でもなかったし、やれと言われてやらされるのに責任は負わなきゃいけなくなる危険性があった。たまったもんじゃないよ。それでも、よく覚えてないけれど、大賀さんと伊庭さんに説得されてやる気になったんだよね。
つまり俺は、大賀さんと伊庭さんには懐いていた。この2人が無理を承知で俺に頼んでくるなら、「これは仕方ないな」と観念して引き受けたのさ。
「久夛良木はマライアみたいなもの」
丸山さんは、プレステを一緒に開発した久夛良木さんとは当時からウマが合っていたのでしょうか。
丸山:もうみんな知っているだろうけど、久夛良木は気性が激しくて特異なキャラクターだし、当時から嫌っている人は少なくなかった。だから「あの久夛良木とちゃんとタッグを組めるやつは誰だ」という観点で人材を探すと、「あっ、丸山がいた」ということになった。そんな関係だよ。
大賀さんにはさ、「久夛良木と組むのはマライア・キャリー(1999年のアルバム『Rainbow』まで米ソニー・ミュージックエンタテインメントに所属)みたいな、わがままなアーティストをマネジメントするようなもんですよ」と冗談交じりに言った記憶があるな。
性格が変わっていて気性が激しくても音楽の才能がある人を、「ああでもない、こうでもない」と説得しながらビジネスにしていくのが音楽業界で育ってきた俺らの仕事だったから。俺のその言葉を聞いて、大賀さんは大笑いしていたな。プレステの初号機を発売する直前くらいの時だよ、大賀さんから「久夛良木とはどうだ。うまくやっているか」と聞かれて、俺は思わずそう言っちゃった。
プレステ開発が軌道に乗るまで、久夛良木と出井(伸之、ソニーの共同CEOや会長兼CEOなど、経営トップを歴任)さんは、ずっとドンパチやっていた。久夛良木は、文系で技術が分からない出井さんのことをバカにしていた。まあ、久夛良木は出井さんだけでなく、自分が認めないあらゆる人間をそういう風に扱う傾向があったけどな。世話になっている俺のことだって、随分バカにしていたよ。
でもね、さっきマライアを例えに出したけど、ソフト分野のスターや実力者は、みんな腕に自信があるから、自分のやりたいように好きなこと言うもんなんだよ。そういう連中をレコーディングさせて、コンサートさせて、商売にしていくのが音楽業界の人間なんだ。
「マルさん、会社辞めてくれ」「じゃあ辞めるよ」
SCE副社長や会長、SME社長などを歴任した丸山茂雄氏(撮影:陶山 勉)
丸山:アーティストやタレントの中にはさ、ライブが始まる直前に「お腹痛いから今日は仕事やりたくない」とか「何かやる気がしないから、ライブはやめよう」とか言い出す連中もいるんだよ。だけど、そういう人たちをスケジュール通りに仕事させて、ビジネスが成り立つように落とし込む必要がある。俺は音楽業界でそういうことをずっとやってきたから、久夛良木ともうまくやれたんだろうね。
もちろん、久夛良木とぶつかることはあったよ。あいつが瞬間的に頭にきて、「マルさん(丸山氏のこと)、もう会社を辞めてくれ」みたいなことを言ったりするわけ。それで売り言葉に買い言葉で俺も、「じゃあ辞めるよ」っていうやり取りは頻繁にあったよ。「こっちもやりたくてやってるんじゃねえよ!」ってね。でも、俺が辞めたら困ると久夛良木も分かっていたから、本当にそうはならなかったんだけどね。
「ソニー本体には序列意識が強かった」
テレビ事業が象徴的ですが2013年度まで10年間にわたり赤字で、ソニーの連結業績も黒字と赤字を行ったり来たりして、長らく低迷が続きました。2015年度は3年ぶりの最終黒字となり、ようやく業績は回復してきていますが、「革新的な商品を出しているわけではなく、リストラ効果が効いているだけで、本格的に復活したわけではない」という社内外の声は少なくないです。かつてのように、ソニーが世の中を驚かせる製品を生み出せなくなった原因は何なのでしょうか。
丸山:そんなことを分析する立場に、俺はないよ。基本的にソニーグループの中で、俺は大物でも何でもないからさ。
プレステの立ち上げに成功した頃は、俺がソニーグループ内で若干の影響力があったことは否定しない。けれど、だからといってソニーグループ全体の中で「丸山はキーパーソンだ」と当時のソニー本体の人たちが思っていたかっていうと、そうは思っていなかったよ。所詮は子会社のSME出身だから。
ソニー本体と子会社って、そういう序列関係みたいな意識が強かったから。特に、音楽みたいなソフト事業をやっているやつなんて、本流のエレキ事業のハード屋さんにしてみたら「頭の悪いバカばっかりだ」と完全に下に見ているからさ。
栄光を支えた“とがったクイ”のような先達
井深(大、ソニー創業者)さんや盛田(昭夫、ソニー創業者)さん、大賀さんといった創業者世代が率いていたソニーが元気だったのは、その頃のソニーに集まった人が、頭がいいだけじゃなくて、度胸もあったからだよ。いわゆる今の有名大学を卒業したような優等生ではないからさ。2000年くらいに、続々と引退していった創業者世代を知る人たちがすごかったんだよ。
創業者世代を支えた、そういうすごい人たちっていうのは、元々ほかの会社に勤めていた人が多かった。盛田さんや大賀さんなんかが、そうした人たちの腕を見込んで、あちこちから「おまえ、ソニーに来いよ」って集めてきたんだ。
あとは、ソニーになる前の東京通信工業っていう社名で、みんなが知っているような会社ではない時期に、あえて入ってくるような変わり者だよ。ソニーが使っていた言葉を引用すると、「とがったクイ」な人たちだし、度胸のある人ばかり。悪く言えば「乱暴者」だよね。でも、そういう個性あふれる人たちが、創業者世代が率いたソニーを元気にしていたんだ。
確かに2000年初頭頃が、ソニーの大きな転換点だと思います。その頃、創業時のキーパーソンが一線を退き、内部の人たちがほぼ創業者世代と入れ替わってしまった。
丸山:創業者世代の後に新入社員としてソニーに入ったプロパーの連中は、ソニーが大企業になって、ちょいと名前が売れてから入ってきているから、まあ優等生だな。そういう優等生は大概、自分だけでは大したことはできないんだけれど、プライドは高くて、「ご本社意識」も強くなって保守的になっていく。
昔の乱暴なメンバーたちが普通にやっていた大胆なことやおもしろいことは、段々やらなくなっていくよね。つまり、度胸がなくなっていくんだよ。
プレステ立ち上げの頃っていうのは、SCEの創業期だから、頭の良さは程々でよくて、むしろ度胸のあるスタッフを集めたんだよ。でもそれって、そんなに間違っていないわけ。ゲームというソフトビジネスで、頭がいいなんてことは最優先事項じゃないからね。
会社創業時の人材に必要な資質は「頭の良さ1割、度胸9割」だよ。でも会社が成長していくに従って、人材の質が変化して「頭の良さ9割、度胸1割」の社員が増えてくる。
なぜ平井社長が苦戦したのか
丸山:で、今は、そんなソニーのトップに平井(一夫、現ソニー社長兼CEO)さんがなっちゃったわけだろ。本流意識が強くて、普通に頭のいいハード屋の人たちは、ソフト屋で音楽系子会社出身の平井さんの言うことなんて本気で聞かないよね。だから平井さんが社長になったばかりのソニーは迷走していたんだよ。
ソニー本体の人たちは、平井さんのことを誰も尊敬していないと思うよ。まあ、その流れは、平井さんの前にCEOとかをやっていたストリンガー(ハワード・ストリンガー、ソニー会長兼CEOや会長兼社長兼CEOなどを歴任)の時からそうだよね。ストリンガーがソニーの社長やCEOになってから、「何もハードのこと分かってねえよな」って思われる人間ばかりが経営トップに就いて、下の連中が誰もトップの言うことを聞かなくなった。その結果、組織がおかしくなって長らく業績が低迷を続けたってことじゃないか。
確かに、ソニーの業績が回復してきたのは、吉田(憲一郎、現ソニー副社長兼CFO)さんが、子会社のソネットからソニーに戻ってからのことです。社内の人に聞くと「吉田さんは勉強家で言うことも分かりやすいので、みな従う」と評価は高い。投資家やアナリストにも「吉田さんがソニーに戻ってから業績の開示が良くなり、プレゼンテーションや説明も明快になった」と評判です。吉田さんの功績は大きく、平井さんだけでは今のソニーの業績改善はなかったかもしれません。
丸山:わけのわかんないストリンガーの覚えがめでたくて、彼に可愛がられていた平井さんがトップになっちゃった。だから平井さんがどんなにまっとうな意見を持っているかどうかとか、今の彼の持っているポリシーが正しいかどうかも関係ない。国家でも企業でもそうだけど、それなりに大きな組織を統治するには、トップと部下の間で、何らかの一致点というか共感できる部分が必要なわけ。
具体的には、「あの人の言うことはよく理解できるから、信じて従おう」とか、「あの人はやっぱりポイントが分かっているよな。だから信用して、ついていこう」みたいな共感というか。自分との一致点を部下に感じてもらえないと、大きな組織のリーダーシップはとれないんだよ。
それなのに、そういうことを理解しないまま平井さんがソニーの社長を引き受けてしまったのは軽率だったなと、俺は思っているわけだよ。案の定、平井さんは当初、ソニーをうまく経営できずに、社内外からいろいろ批判されて、苦労していた。
(中に続く)
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