モ:トラックが入庫するあたりの都心の夜は実はもうちょっと明るいのですが、ここは自分のバイアスがかかっています。市場の中はひたすら暗くて、部分的に激しく明るい。そこに行ってそう感じたことを、ウソにならないように描かないといけない。
―― なるほど。それでは築地市場を本で伝える際に、難しかったことは。
モ:築地市場の「過剰さ」を、どうやって人が理解できるように整理するか、ということでしょうか。
築地市場に限らず、「過剰」なものは基本的に面白いですよね。“やりすぎているところ”に、人はエネルギーを感じる。築地はその過剰さが、市場が動き出す夜中から始まって、他の人が寝静まる真夜中に、魚も人もお金もどんどん集まってきて最高潮に達し、朝日が出てくる頃にすーっと引いて静かになっていく。後書きにも書きましたけど、一つの生き物みたいでした。
―― 通販のアマゾンの倉庫のピックアップ係は、交代で24時間同じスピードで歩くという話ですが、そういった合理性の反対ですね。生き物感があります。市場だから、そこに欲も商売も絡むし、エネルギーがものすごい。
モ:こんな場所はなかなかないので、外国からのお客さんにも受けるんでしょうね。
―― 過剰さがシンプルで、伝わりやすいから「バカウケ」するわけだ。
モ:初めて夜の取材に行った日は、私も編集者もその過剰さから来る熱気…とはちょっと違いますね、命のやり取りというか、空気に完全にあてられてしまい、クタクタになりました。すごい、すごい、としかお互いに言えなくて、朝からこってりオムハヤシを食べてしまいました。魚はしばらく見たくなかったです。その次の日にYさんと会ったんです。
―― そういえば祭りに参加した後みたいな雰囲気でした。でも正直「築地市場ねえ…テレビとかでさんざん紹介していなかったっけ」と、そこまで驚くか? と思った覚えがあります。
モ:そうそう、いくら話してもYさん、全然感心してくれませんでしたよね!
―― リアクションの薄さ、やっぱり覚えてましたか…。
モ:テレビの紹介はだいたい一般相手の「場外」市場です。場内の本番というか、魚を扱う人達の仕事現場は、相手が「ナマモノ」ということもあって迫力が全然違います。工場の見学コースと、本当の製造ラインの中、いや、それ以上の差がありました。
築地の本を参考のためにいろいろ読んでみたんですが、完全に中の人のものか、書く側がその迫力にやられてしまいがちで、お祭りの迫力にとりこまれ、同化してしまったものが多いように思います。擬似的に内側の人間になって書いてしまうんですね。それはそれでアリではありますけれども。
過剰さを距離を置いて描きたい
―― モリナガさんはどう描きたかったんですか。
モ:「自分の見て来たもの、感じた空気を描きたい」と思いました。内側に入り込んで、市場の関係者になりきるのではなく、もちろん突き放すのでもなく、観光ガイドでもなく、「場」としての築地の異様さ、面白さを、伝えたかったんです。いまの市場の「過剰な」日常の姿を見せる。
テオドル・ベスターの『築地』が参考になりました。ハーバード大学の教授で、社会学と日本研究をしているアメリカ人です。愛しつつ突き放している距離の取り方がとても勉強になりました。養殖物より自然で採られたものがありがたがられる、「天然もの」と言われる、などという視点は新鮮でした。
―― 魚に親しんでいる日本人なら当たり前でも、そこに価値を見いだすのはある種「過剰」なんですね。過剰さに取り込まれすぎないために、距離を置く、つまり情報を整理する。
モ:というか、最初は距離が必要なんです。だって築地市場って、気持ちに距離を取らないとひたすら怖いんですよ。この過剰な現場に入っていくことだけでも。冒頭、夜の築地市場にトラックががーっと入っていく絵がありますが、これには「ものすごい状況にこれから突入しなくちゃいけません!」という、自分自身覚悟を決めるような気分がにじみ出てると思います。ただ場内は狭隘で、普通の取材のように物理的に距離を取ることが不可能でしたが。
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