規制委にはしごを外された

 昨年12月21日、関係閣僚会議で廃炉の方向性が決められ、その日のうちに松野博一文部科学相から指示書が渡されました。(もんじゅを運営する日本原子力研究開発機構の)理事長、副理事長とともに私もその場におりました。私の個人的な気持ちはどうあれ、従うべきものでした。

 もんじゅの廃炉については、以前から様々な報道がありました。そうした報道を見ながら「単なる風聞もある。廃炉を唱える人も当然いるだろう」というレベルで見なしていました。

 状況が変わったのは昨年9月16日、自民党の茂木敏充政調会長が「廃炉は不可避」との考えをメディアのインタビューで表明したことです。同月21日には関係閣僚会議で「廃炉を含めて抜本的に見直す」という話が出ました。これは、廃炉が正式に決まる事前の出来事としては大きなショックでした。

 もちろん、それまでも、「廃炉までは議論が進まないだろう」と能天気に構えていたわけではありません。

 15年11月、原子力規制委員会が当時の馳浩文科相に対してもんじゅの運営主体を日本原子力研究開発機構から変更するよう勧告をしました(編集部注:規制委は「機構に代わってもんじゅの出力運転を安全に行う能力を有すると認められる者を具体的に特定すること」「もんじゅの出力運転を安全に行う能力を有する者を具体的に特定することが困難であるのならば、もんじゅが有する安全上のリスクを明確に減少させるよう、もんじゅという発電用原子炉施設の在り方を抜本的に見直すこと」の2項目について半年をメドに措置を求めた)

 これは極めて厳しい内容でした。いわば、私たち運営者は「舞台から出ていけ」ということですから。

 当時、この勧告について私は「はしごを外された感がある」と報道陣の取材に答えました。所長に就任以来、現場の改善、改良を進めてきました。勧告が出る数日前、新たな改善計画を規制委にも説明をしました。さらに一歩、進めようとしていた矢先のこと。「成果を待ってはいただけないのか」との思いから、正直に感想を述べました。

 確かに15年、四半期ごとの規制委の保安検査で点検不備などによる保安規定違反が続きました。しかし、それもしっかり手を打っていけば改善できると考えていました。

 勧告が出ていろいろとお叱りを受けながらも、自分たちがやるべきこと、つまり、もんじゅ再生に向けた作業を続けてきました。改善計画を実行し、昨年8月にはその成果を報告書にまとめました。

 ですからその直後の9月にもんじゅの見直しの方向性が出されてからは、再稼働の必要性や得られるだろう成果について、技術的な側面を含めて関係者には説明を続けてきました。最後の最後まで説明していこうという思いでした。しかし、残念ながらもんじゅの再生は最終的にかないませんでした。

 資源を繰り返し使える原子力システムの原型炉としてもんじゅは1994年に初臨界しましたが、翌95年12月にナトリウム漏洩事故が起き、運転を停止しました。その後、2010年に運転再開するものの、装置の落下事故で再び運転を停止しました。22年間で稼働したのは250日間のみでした。