飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げていたビジネスホテルチェーン、東横イン。2008年、不祥事をきっかけに開業以来最大の苦境に追い込まれる。「従業員に笑顔を取り戻す」。そう誓った娘は救世主となれるのか。(文中敬称略)
くろだ・まいこ
1976年東京都生まれ。聖心女子大学卒業、立教大学大学院修了。2002年、父の西田憲正氏が経営する東横インに入社。営業企画部で新店立ち上げに携わる。結婚、出産のため05年に退社。08年に副社長として復帰し、12年6月から社長。夫と2女の4人暮らし(写真:菊池一郎)
「私が社長をやります」――。電話越しにそう伝えると、父は「ああ、分かった」と短く答えただけだった。2008年秋、電話をかけたのは東横インの社長、黒田麻衣子。父とは創業者の西田憲正だ。
当時、黒田は夫の仕事の都合で、2人の娘とドイツで暮らす専業主婦だった。大学院修了後の02年から約2年間、東横インで働いた時期があるとはいえ、社会人経験は唯一それだけ。それでも会社に戻ると決めた。
自分に何ができるかなんて全く考えなかった。会社が苦境に立たされている。「今の自分があるのは父と共に会社を支えてくれた皆さんのおかげ。恩返しをしなければいけない」。黒田にそう固く決意をさせたのは、誰もが知る、あの事件がきっかけだ。
ビジネスホテルの草分け
東横インは、1986年2月に東京・蒲田に1号店をオープンした。そもそも黒田の父、西田は電気工事会社の2代目。先代の急逝に伴い、32歳の若さで社長に就任した。
ただ、電気工事を請け負っているだけでは頭打ちになるのは明らかだった。何をすれば儲かるかを考え、始めたのがビルの企画・設計。事業は順調に伸び、自らビルを建てて所有するまでになる。そんなとき、知人から土地活用を相談されたことがきっかけで、副業として始めたのがビジネスホテルだった。
だが、その数年後に到来したバブル崩壊で、西田は所有していたビルのすべてを手放す窮地に追い込まれる。自宅まで抵当に取られて失うかもしれない状況で、家族会議が開かれたのを、まだ中学生だった黒田は鮮明に覚えている。
そのとき、かろうじて残ったのがホテルだった。土地と建物をオーナーから借りて、ホテルを運営する〝大家さん方式〟で運営していたためで、以後はホテル業に専念することとなる。
東横インの魅力は、リーズナブルな料金と清潔な室内。ビジネスマンを中心に人気を呼び、90年代後半から2000年代にかけて、面白いように客室数は伸びた。それまでの安かろう、悪かろうというイメージを打ち破り、新しいビジネスホテルの文化をつくり上げた草分けの1つである。
急成長に水を差す事件
国内外に257店、総客室数は5万室超。国内のホテル運営会社としては最大級
二度の不祥事が起きたのは、そんな飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続け、社員が肩で風を切って歩いていた頃だ。
一度目は2006年、障害者用駐車場などの違法改造や建物の容積率違反が発覚。当局に指摘を受けてから3カ月以内にすべて是正したものの、世間からの厳しい批判にさらされた。さらに08年には、東横イン松江駅前の地下から硫化水素が発生。建築廃棄物の違法投棄を指示したとして、西田は逮捕され、有罪判決を受けた。
この知らせをドイツで聞いた黒田は、すぐに日本へ一時帰国する。テレビ画面に映し出された父の姿を見て、まるで電流が走ったかのように「私が会社を守らなきゃ」と本能的に思ったのだという。いわば使命感に近い感情だった。
東横イン開業時、黒田は10歳。妹と一緒に父の車に乗せられ、毎日のように宿泊客の入り具合を見に行っていた。父が電話で社員を怒鳴っていた姿もしばしば目にした。黒田自身、小さい頃は父に怒られた印象しかない。黒田は、そんなわがままで直情的な父が大嫌いだった。家族でファミリーレストランに行き食事をしているときに「何億円の物件がどうのこうの」と大きな声で話す父が恥ずかしくてたまらなかった。
黒田が小学1年生のときには、両親と一緒に食事に出かけたにもかかわらず、妹と2人だけで置き去りにされたこともある。幼いながら頭を働かせ、近くの交番で電話を借りて自宅に電話をかけると、父に「お巡りさんに電車賃を借りて帰っておいで」と言われた。何があってもたくましく生きられるように、という西田なりの教育だったのかもしれない。
父に振り回され続けた少女時代。「父と同じ道は歩まない。会社は絶対に継がない」と黒田は心に決め、一時は教師を志して大学院まで進学した。勉強しながら母校で講師を務める中で、教師に向かないのではないかと思い、教職の道を断念。就職活動に出遅れたことがきっかけで父の会社に入り、それが現在につながっている。
会社や社員を守り、経営することがどんなことなのかを理解し始めた今では、あの頃の父の気持ちが、少しだけ分かる。
キャッシュがない
父の逮捕から2カ月後の08年12月、黒田はドイツから日本に戻り、東横インに復帰。副社長に就任した。社内からの目立った反発はなかった。「父は絶対的なワンマン経営者でした。そんな人に対抗できるのは私しかいないと期待されたようです」と黒田は振り返る。
無料の朝食サービスのメニューは店舗ごとに違う。1食当たりの大まかなコストは本社で提示しているものの、メニュー構成は各支配人に任せている(写真:菊池一郎)
とはいえ、東横イン開業以来の危機的状況であることに変わりはない。黒田が会社に復帰した08年、翌09年は事件の影響のほか、リーマン・ショックも重なり、絶不調。年間の平均客室稼働率は64%まで落ち込んだ。事件前に仕込んでいた店が次々とオープンし、客室が急激に増えたという事情もあった。
また、コンプライアンス違反を犯したことから金融機関との関係も悪化した。新たな融資が受けられなくなるだけでなく、短期で借り入れていた資金もすぐに返済するように迫られ、東横インは黒字倒産の危機に陥る。金融機関の対応は男性役員に任せ、黒田は低稼働に苦しむ現場の運営に専念した。ただ焦る気持ちが強すぎて空回りが多かった。
例えば、現場ではコスト削減を重視し、フロント担当者が退職したら補充しないようにするなど人員を抑制したところ、サービスレベルは低下し、さらなる客離れが起きた。現場は疲弊し、不満が噴出。会社を去っていく支配人もいた。
(後編に続く)
(この記事は日経BP社『日経トップリーダー』2016年10月号を再編集しました。構成:荻島央江、編集:日経トップリーダー)
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