斎藤:当時、大学の就職課には、いろいろな企業から求人が来ていまして、その中に、大日本インキ化学工業がありました。そこには、社員になって給与をもらいつつ、海外の大学院の修士課程に通える社内留学制度がありました。これは都合が良いと考え、私はまずこの会社の入社試験を受けて、合格し、それから「実はこういう話があります。修士課程に通う留学ではないですが……」と人事部長に相談したら、社長面談まですることになり、結局、OKをもらいましたので、この制度を使って2年間、チューリッヒに留学したのです。

スイス留学中の下宿先「国際学生の家」にて。右端が斎藤氏。斎藤氏はスイス留学中に、高度経済成長期の日本とは異なるオフライフも充実した欧州のライフスタイルに触れた
スイス留学中の下宿先「国際学生の家」にて。右端が斎藤氏。斎藤氏はスイス留学中に、高度経済成長期の日本とは異なるオフライフも充実した欧州のライフスタイルに触れた

 帰国してからは埼玉県の当時浦和市にあった中央研究所に配属になりました。そこで感じたのは、スイスと日本の違いです。私が駆け出しの頃は、日本は高度経済成長期でもありましたので、徹夜の仕事は当たり前。私は研究所構内の社宅に住んでいましたので、朝から夜中まで会社で過ごすようなありさまでした。面白がって仕事をやってはいましたが、スイスにいたときに、休日にヨット遊びのためにドイツとの国境にあるボーデン湖まで足を伸ばしたり、平日の夕方は近所の学校の体育館を借りて仲間たちとバレーボールをしたりという余暇の楽しみ方もしていたので、仕事ばかりでは窮屈と、研究所でも何か楽しめるサークルをつくろうと、テニスサークルを始めたんです。

今、企業では働き方改革への取り組みが盛んですが、斎藤さんは若い頃に欧州のライフスタイルになじんでいたために、時代を先取りしていたようですね。

斎藤:留学時に休暇を取ってイタリアを訪れたときは、まさにルネサンス文化を堪能し、心を揺さぶられました。当時は「ヴィーナスの誕生」を間近でじーっといつまでも見られたんですよ。

研究所から工場へ移ったことが転機に

斎藤:その後、研究職よりも消費者に近いところで働きたいと思い、千葉県の市原市にある千葉工場の技術部に異動させてもらいました。工場は従業員も多く、テニスサークルも規模が大きくなりました。と、同時に落語研究会を始めたんです。若手の噺家を呼んで落語会を開いたり、音楽会を主催するために千葉市にあるショッピングセンターのホールを借りることもありました。そこへ人が来ると買い物も期待できるからと、ショッピングセンターの事務局の人がそのホールをタダで貸してくれたんです。

 そのうち、近くにトレンディーな競合商業施設ができて、そのショッピングセンターからは客足が遠のきました。そのために10坪ほどのテナントの空きが出てしまったとき、事務局の人からそこを使ってもいいと言われたんです。当時は初めてカルチャーセンターという事業ができた頃でした。落語やら音楽会やら文化的な催し物をやっていましたから、その関連で、カルチャーセンターの小規模なものならやれるのではないかと思い、その場所で始めたんです。そのときに付けたカルチャーセンターの名前が「エコール・ド・ルネサンス」、ルネサンスの学校です。

会社の仕事はしていたのですか?と聞きたくなりますが……。

斎藤:もちろん会社の仕事が第一ですよ。仕事以外でもいろいろと活動ができていたのは、社内に仲間や賛同者がいたのです。話すと長くなってしまいますのでここではやめておきますが、とりわけ理解者であり、私のメンターになってくれた上司がいました。

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