マックアースは、スキー場の再生事業などを手掛け、バブル崩壊で客足の遠のいたスキー場に、人を呼び戻している。昨シーズンは、国内では14年ぶりとなるスキー場の新設を果たした。これらの原点には、持続可能な中山間地域の創造、学校の団体客に絞った旅館経営と体験プログラムの提供があった。CEOの一ノ本達己氏にスキー場経営に対する思い、今後を聞いた。
マックアースのスキー場の事業について、最近のトピックスを教えて下さい。
一ノ本:2017年、新たなスキー場「峰山高原リゾート ホワイトピーク」を、兵庫県の姫路から50分ほどの神河町(かみかわちょう)にオープンしました。このスキー場は当社が神河町に提案し、町から指定管理者に指名されて運営しています。
スキー場の新設は日本では14年ぶりで、「このご時世にスキー場を新しく造るとは!」とかなり驚かれました。
しかし、蓋を開けると、リフトが2本の小さいスキー場ながら、昨シーズンは5万7000人が来場しました。日本の平均はリフト1本当たりの平均利用者数が1万6000人ですから、かなり優秀なスキー場と言えます。
しかも、スキー板などのレンタル率が約70%に達しました。通常のスキー場とは違う、普段あまりスキーには行かないようなお客様が来てくださいました。
一ノ本 達己(いちのもと・たつみ)
マックアース代表取締役CEO。1967年兵庫県養父市生まれ。90年京都産業大学卒業後、パークホテル白樺館(現・マックアース)に入社。95年、27歳で現職。スキーは上級者。今でも国体の予選に参加しているという。ほか「ウェイクサーフィン」に挑戦中。同社グループでは現在、スキー場26カ所、ホテル18カ所、キャンプ場3カ所、ゴルフコース4カ所を所有あるいは指定管理などで運営している(写真:山本祐之)
この峰山高原には、もともと町が所有しているホテルが1軒あり、指定管理者が運営していました。ところが、彼らが撤退することになり、町から当社に指定管理を依頼する電話があったんです。
ここは当社で目を付けていた場所でもあったので、すぐにホテルを見に行き、改めて山も確認しました。山はスキー場になると判断して、町との交渉に入りました。
シーズン券だけでスキー場来場者の約4割を確保
峰山高原が良いスキー場になると判断した理由は何ですか。
一ノ本:スキー場はそもそも遠いところにあります。車で出掛けて行くにもスタッドレスタイヤに替える必要があるなどハードルが高いのですが、ここならスキー場から駅に送迎バスを出すことができます。天然の雪は少ない場所ですが、スノーマシンでの降雪が可能です。
今、スキー場は、山奥でお客様が来るのをじっと待っているだけでは不十分です。ウインタースポーツをしてもらいたければ、スキー場のほうからマーケットへ近付かなければなりません。
そうすれば、市場はまだ拡大すると考えています。小さい山で滑ってスキーがうまくなれば、すぐにそこでは物足りなくなり、山奥の広いスキー場まで足を延ばしてもらえるようになります。
通常、スキーヤーは1つのスキー場に対して強い愛着を持ちます。行き付けのスキー場があるんです。ところがそこに飽きると、ウインタースポーツ自体から離れてしまうといったケースがよくあります。別の山に行ってもらえれば、別の楽しみ方ができます。
いろいろな山で、新たな楽しみ方を知ってもらいたい――私たちはそう考えています。
スキー場ごとにゲレンデの起伏などが変わりますからね。
一ノ本:そうした楽しみを広げるため、2013年に「マックアース30」というリフト券販売の仕組みをつくりました。
これは“超早割”価格として税込み5万5555円で販売するシーズン券で、当社が管理、あるいは提携しているスキー場で、この券を提示すれば、どのリフトにも乗ることができます。
このシーズン券の購入者は大抵、ウインタースポーツに高い関心を持っているインフルエンサーです。自分がスキー場に足を運ぶだけでなく、周囲の人たちも引き込んでくれる貴重な存在なのです。
このほかにも、特定の地域でシーズンを通して使えるエリアチケットなども販売しています。このようなシーズン券を年に1万8000枚販売していますが、実はこれだけで当社が運営するスキー場の年間来場者のうち、3割から4割を確保しています。
例えば、マックアース30は年間4000枚販売します。このチケットを購入してくれるお客様はシーズン中に平均20回もスキー場に来てくれますので、それだけで延べ8万人になるのです。このインフルエンサーが毎回2人の友人を連れてきてくれれば、それだけで24万人ですから、このマックアース30だけでも年間集客246万人の約1割が集まる計算です。
「山奥に何万人も人を呼べるってすごい」
来場者が少なくなったスキー場に人を呼び戻す再生事業をスタートさせたのは2008年、リーマンショックの年です。なぜこの事業をビジネスにしようと考えたのですか。
一ノ本:山奥に、何万人も人を呼べるってすごいことだな、と思ったのです。
私の家は大変な山奥にあります。代々標高870mの場所に住み、水田は棚田だけです。平地に住んでいる人に比べると、生産性がかなり劣ります。ですから地域の人口は減っていく一方でした。ところが、1960年代にスキー場ができて、過疎を食い止めることができたのです。
スキー場があるから、自分も生活できたし大学まで行かせてもらえました。スキー場様々です。自分がスキー場を経営するようになって、そのことをもっと痛感しています。
今、26カ所のスキー場を運営していますが、全国展開のきっかけは、長野県の黒姫高原でスキー場とホテルを経営している方々が視察に来られたことです。その後、見学に来た社長から、当社にスキー場を運営してもらえないだろうか、と声を掛けられたのです。
黒姫高原のプロジェクトに関わるようになった当初は、関係者の中に「兵庫の人にスキー場のことが分かるのか」という雰囲気がありました。相手は長野ですからね。
そこで、黒姫高原では閑散期対策にも取り組んで信頼を得ました。プロジェクトに参加して間もない頃、9月に5連休があり、イベントや宣伝を集中させ、全力で取り組みました。すると、この5連休だけで3万人の集客があったのです。
夏季に運営しているコスモス園は、新聞で“日本一のコスモス園”と紹介していただいたこともあって、たくさんのお客様に来ていただいています。そうやって結果が出たことで、長野の人たちの間にも一緒に仕事をしようという空気ができてきました。
マックアースのスキー場では東日本の第1弾となる長野県の「黒姫高原スノーパーク」。夏はコスモス園「旬花咲く黒姫高原」を運営(写真)。今ではコスモスの名所として有名になった
代表に就任されたのは27歳と聞いています。
一ノ本:そうです。そうなるように、父親に洗脳されながら育てられたんだと思います。
小学校2年生のときの文集に、将来の夢として当時の家業だった「ホテルを大きくする」と書いているんです。大学を卒業してすぐ父親の会社に入って連帯保証を負いました。私が入社したときは、旅館を建てて4年しか経っておらず、まだ借金が4億円ほど残っていました。
この旅館が、兵庫県のハチ高原にあるスキー場の横にある「ロッジ白樺館」です。ハチ高原にまだリフトがなかった60年代、山スキーのお客様向けゲレンデ食堂が始まりです。ハチ高原は関西最大級のスキー場エリアで、子供の頃は、たくさんのスキー客が来ていました。
一ノ本氏の幼少時代(写真手前)。背景に父親が始めた最初の宿泊施設「ハチ高原ヒュッテ」
「勝手に銀行からお金を借りました」
ただ、スキー場近くの旅館はたいてい冬しか稼働しません。夏にも林間学校の生徒たちを受け入れていましたが、数は多くありませんでした。
私は入社後すぐ、学校に猛烈にセールスを掛けて、雪がない4月初めから10月下旬まで1日も空けない予約を取りました。林間学校でできるプログラムは20程度から約150まで増やし、ネイチャースクールと名付け、「ここに来てさえもらえれば、私たち社員が何でも指導します」という体制にしました。
この販売策が当たり、4年ほどで負債が約1億円減ったところで勝負に出ました。
父親が始めた最初の宿泊施設は「ハチ高原ヒュッテ」ですが、この後「ロッジ白樺館」を建て、後に増改築をして「パークホテル白樺館」となりました。
このパークホテル白樺館には、本館と別に古い建物がありました。父親はそこを3億円で改修しようというのですが、改修では宿泊のキャパシティーが増えません。借金だけ増えて、売り上げは増えないわけです。
そこで、私は7億円を新規に借り入れ、隣の土地を手に入れて増築したのです。当時、経理も担当していましたので、勝手に銀行からお金を借りました。
さすがに父親には「いいかげんにせい」と叱られました。ところが「そこまでやるんだったら、もうお前が全て経営したらいい」と言われ、このことがきっかけで私は代表になりました。今思えば、そうなるように父親が仕向けたのかもしれません。
宿泊定員は350人から600人に増え、中学時代の友人たちに社員となってもらいました。ただし、会社の負債がまだ大きかったので、この後の5年間はほかの商売をせず、ひたすら財務の改善とオペレーション強化に取り組みました。
(後編に続く。後編の掲載は10月12日の予定です。構成:片瀬京子、編集:日経BP総研 中堅・中小企業ラボ)
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