創業の頃まで遡りますと、ピンチという状態もあったかと思いますが。
坂田:危機はいくつかありました。1つは戦争ですね。第二次世界大戦前のメーンは花、それと海外向けの輸出でした。「オールダブルペチュニア」という世界的なヒットが出ていたんですが、戦争で研究開発、取引が中断している間に、米国でも開発できるようになってしまった。
戦争の間に失った海外市場を取り戻す
戦後は事業構造を大きく転換しました。第一に優先しなければいけないのは国内だということで、それまでメーンだった花や海外よりも国内、および野菜へ進出していこうと決断しました。
実は、そうして生まれたヒット商品が「プリンスメロン」(62年発売)でした。あれが出たおかげで、当社は野菜分野でも地位を築き上げることができたと思います。
そこから発展して、現在、海外の売り上げ比率は55%近くに上っています。これはやはり、坂田社長が入社されて以降、ビジョンを持って取り組まれた結果なのでしょうか。
坂田:もちろん、ゼロからじゃありません。海外との取引はその前からずいぶんとありました。ただ、拠点がなかったんです。
創業者としては悔しい思いをしたリベンジ的な気持ちもあったでしょう。戦前は上海に支店や北京に農場を持っていましたからね。
日本から海外市場に出るとなれば米国が第一だということで、まずは米国に拠点をつくりました。次に、取引はありましたが拠点がないということで、欧州へ出ていった。下地がある程度できた段階で、私が88年、事業所を立ち上げるためにオランダに赴任しました。
オランダはよく知られているように米国に次ぐ農産物の輸出国です。貿易立国で、輸出で成り立っている。そういった意味では、日本はオランダから学ばないといけませんね。さらに最近では、種や苗だけではなく、システムとして売るという形がオランダをはじめとする先進国でどんどん出てきています。
「スマートアグリ」のようなビジネスですね。
坂田:これから、そういった分野がどんどん発展していくと思います。ただ、その一方で、極寒の地や乾燥地帯、例えば、アフリカなどで農業にチャレンジするのも、面白いかなと思います。
恵まれたところで作物を作るのであれば、テクノロジーは必要ないわけです。環境に恵まれない地域だからこそ、ITを駆使した農業が必要になってくる。それに対して、我々がどうビジネスを展開していけるのか、ですね。
当社が取り組んできたグローバル展開を続けていくには、まず正確な情報、現地の情報を取らなくてはいけない。そのために、各拠点のトップは1社を除き現地の人に任せています。