ではどんな形なら貢献できるのか。考え抜いた末に浮かんだのが、父が会社の顔なら、自分は会社を縁の下で支える黒子に徹して、それを自身の強みにするということだった。

 旭人はコールセンターの仕事に打ち込んだ。明は当時の旭人の仕事ぶりについてこう語っている。「旭人がコールセンターの仕組みやシステムをゼロからつくり上げた。同様の施設と比べても、自慢できる内容だ」。

 その後、愛知県に新設した物流センターの立ち上げにも携わり、これもやってのけた。「何より自分に自信がついたし、父にもだんだん認めてもらえるようになった。母の助言で父との距離をとったのがよかった」。

本気の後継者教育

 明が本気で後継者教育を始めたのは、12年に旭人が副社長になってからだ。旭人自身、「社長になった今より、副社長時代のほうが精神的につらかった」と話す。

 同じ頃、ジャパネットたかたは東京にオフィスを開設。本社からバイヤー機能を移転したほか、佐世保に加えて、東京にもスタジオをつくった。その責任者が旭人だった。

 ジャパネットたかたは、明の強烈なリーダーシップに引っ張られてきた会社だ。他の通販会社にはない特徴の1つは、競争力のある商品に絞って展開する「少品種多量販売」にある。商品を絞り込むことで、コールセンターや物流センターの効率も上げていく。

 この戦略を実践するには商品の選定がすべて。従来は明がその役割を担っていたが、これからは自分たちで商品を選定し、販売しなければならなかった。

 明は自分が納得しないことにはなかなか首を縦に振らない。再び2人はぶつかった。「こういう商品を売りたい」「こんな企画をやりたい」と言っても、こてんぱんに跳ね返される。社員の前で「根拠も実績もないのに、うまくいくはずがない」「やってみなければ分からないじゃないですか」などとやり合うのも日常茶飯事だった。

 明が旭人を鍛えるために用意した最終ハードルが、12年秋の「来年度、過去最高益を更新できなければ社長を辞める」宣言だ。

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